2014年11月17日月曜日
スイッチポイント
呪いと お呪い
なにが違うのかな
願望実現のために お呪いをするでしょう
それは同時に 呪いをかけているわけで
人を呪わば 穴二つ
自分も呪いにかかっていることになる
呪いはね 呪っているときはまだ完成していないの
呪っている間 自分が苦しんでいる間は 願っている間は
まだ術は終わっていないの 術はかかっていないの
自分がその苦しみから抜け出して 願望への執着がなくなってやっと
その呪いが対象に降りかかる
忘れた方が夢が叶ったり 呪いが発動するのも
現実が入れ替わる タイミングというのがある
大きなタイミングは 日食月食のような グランドクロスのような
華やかな 天体ショーだったりするけれど
日常でも小さな 局面が切り替わるタイミングがあって
まるでイワシの群れがいっせいに向きを変えるように
どこかのスイッチを切り替えたように 現実が切り替わる
タイミングがある
多分術師たちは 旧暦のような暦を使って
そのタイミングを独自に割り出していたんだと想う
というか 六曜とか月齢とか 旧暦のような複雑な暦は
そのタイミングを人工的に作り出している
みんながその暦通りに生活を送っていれば その暦に従っているなら
みんなの意識がそこに集まっているわけで
それに六曜のような印を付けてしまえば 集合意識に印をつけている
その印を目印に 術を張れば
現実を切り替えるポイントの スイッチを握っているようなもの
新月や満月 上弦の月 下弦の月
細かく見て行けば 月齢も
エネルギーの増幅や 増減を 数字で表していて
満月は想念体が 矢のように放たれるときだから
多分それが地上に着地する 新月辺りが
現実化の始まりかもしれない
ちょっとおおざっぱすぎるので 考察が必要だけれども
私はあんまり そういう細かい数値で行動を縛られるのが
好きじゃないのよね
それこそ平安時代の 方位取りと同じ
それに月齢はあくまでも 月のエネルギーの強弱だから
地球のエネルギーという 干渉も入るわけで
暦は人工的にタイミングを作り上げようとする
あんまりそういうの 好きじゃない
西暦になってからも 日本には異様に祝日が多くて
祝日もなにかの 目印になっている
123便の墜落の日を 山と関係ないのに めでたくもないのに
山の日という 祝日にしたり
文化の日や 体育の日 海の日
よくわからない祝日も 現実を切り替えるための
スイッチポイントにしていていると想う
憲法記念日と文化の日ってちょうど半年離れてるんですよ。
文化の日と憲法記念日の関係は今でも多分「常識」だと思いますが、11/3がかつての「明治節」であったことは今では忘れられてしまっているでしょう。明治節は昭和 2年から祝日とされたもので、明治天皇の誕生日です。
呪いも願望も 同じエネルギー
念の力
その構造も 働きも ほとんど同じ
呪いも願望も 念を発しているなら
行き着くところは同じ
願望という呪いを放っているか
呪いという願望を放っているか
どちらにしろ 同じこと
それはね エネルギーの等価交換
質量保存の法則
この法則はね エネルギーという言葉をそのまま
現実という言葉に置き換えても成り立つの
現実の等価交換 現実の質量保存の法則
なぜ呪ったり怨んだりするのかというと
夢を叶えたいのかというと
それによって エネルギーを交換させたいわけでしょう?
失われたものを 取り戻したいわけでしょう?
願ったものを 現実化させたいわけでしょう?
それはね 現実の等価交換を 図っているわけだから
夢から現実への 質量保存の法則を 利用しているわけだから
自分が幸せにならないと 幸せな現実を手にしないと
相手に自分が苦しんだ現実が 交換されないの
夢を見ている間は 現実化へ シフトされないの
自分が幸せになることが 対象への一番の呪いであり
握りしめたものを手放すことが 現実化への近道であり
それが法則発動の スタートになる
もうどうでもよくなったとき
それは現実が入れ替わった証拠
夢が叶った 瞬間なの
なぜ防御のために生贄を捧げたり
儀式殺人が続くのかというと
生命という一番フレッシュなエネルギーを
取り込むことで
自分の現実を 破滅していく現実を
取り替えているわけで
日食月食 月の儀式が始まると
ユダヤが子供を捧げようとするのは
自分たちに返ってくる現実を
生贄の未来と 取り替えているの
だからまっさらな未来のある子供たちが
希望に満ちた未来が待っている子供たちが
狙われてしまう
等価交換 質量保存の法則を利用して
やったことがかえる 対象を取り換えることで
やったことがかえる 宇宙の法則から
逃れようとしているの
本当はとっくに滅んでもいいウイルスたちが
コンピュータのバグたちが
何千年もこの世界を支配しているのは
宇宙の法則に対して 別の宇宙の法則で
対処しているから
それはまるで 平行世界をスライドして行くように
泥棒が逃げるために編み出された術
術は基本ね 泥棒がお縄から逃げるために
編み出されているのよ
術はすべて 防御のためなのよ
攻撃は最大の防御というのも 泥棒が逃げ越すために
見つからないために やっているだけなの
彼らはいつまでもいつまでも どこまでもどこまでも
逃げ続けなければ行けないから
出エジプトやレコンキスタ
時間が来たら離れねばならない
術が解けてしまうから バレてしまうから
それを教えるのが 太陽と月の交わり
時には過去や未来 時間移動して
列車のレーンを チェンジして
パラレルワールドまで スライドして 逃げていく
ああそういえば 最近ヒットしている時代劇は
JIN だったり 信長協奏曲だったり
歴史の中で 血筋が時空移動する話ばかりだよね
安藤ロイドも そんな話だった
どこかで時空が歪み始める 彼らはその時を待っている
国民からたくさんの怨みを買っている 政治家のような人物が
なぜずっとピンピンしているのか 不思議でしょう?
多分ね あんな現実的な世界にいる人たちから
想像できないかもしれないけど
呪いに対する対策も やっているんだと想うよ
有能なお抱え霊能者が きっと傍らに居て
国民から飛んでくる 数多の怨念や生霊を
防御する対策も ちゃんとやっているから
生きていられるんだと想う
だって陰陽師の始まりって 安倍清明とか
国家の支配者には もともとそういう怨霊対策の専門家が
昔からついているじゃない
歌人柿本人麻呂の 本当のお仕事は
歌を詠むことで 宮廷にやってくる 怨霊を調伏していた
昔から政治のかなりの部分が 怨霊鎮魂
怨念対策だったわけで
それは今も変わっていない
だからこそ圧政を 敷くことが出来る
今はそんな役割の人が 政治家に仕えていても 不思議ではないし
政治家や経営者が 実はラスプーチンのような怪僧を抱えていたり
民主党の小沢氏が 高野山の高僧と対談したりしているのは
密教の高僧のような 呪術師のアドバイスで
政治家生命を護ってもらっていても 不思議じゃない
大物政治家とお近づきになるほど 宗教団体も
政策上でも優遇してもらえるわけだし
お布施という形で お金も流れているだろう
公●党のようなカルト政党のおかげで そういった存在が隠れているだけ
霊能者が稼ぐには 大物に取り入るほど
生計が見込めるから ちゃんとそういうルートが
用意されているような気がする
コイズミが311の後 いきなり脱原発にシフトしたのは
私はこの人の考えというより
誰かのアドバイスのような気がする
脱原発にシフトすることで 311で抑えきれなくなった
たくさんの国民の怨念が 自分に降りかかって来るのを
軟化させようとしている
新たな利権を狙っているという説もあるけれど
その割には細川氏ともども 尻すぼみな感じ
細川氏が品川駅で倒れてしまったせいで
脱原発の活動が 休止になったけど
本当はあれはコイズミのはずだったかもしれない
コイズミに向かっていた怨念を ノーガードの細川氏が
代わりに被ってしまったとしか 想えないんだけども
穿った見方をすると それが目的だったのではとさえ
想ってしまうわ
もともと乗せられやすいお殿様を うまくそそのかして
自分と一緒に 担ぎ出した
もし細川氏の周囲に 有能なブレーンがいたら
あの時期コイズミと活動を共にすることが
国民の怨みを一身に浴びている人物と
311直後に 一緒に表舞台に出ることが
どれだけ危険なことか アドバイス出来たと想うのよ
昭和天皇だって たくさんの国民から 遺族から
心の底では 怨まれていてもおかしくないのに
天寿を全うできたのは
天皇陛下も被害者だったという プロパガンダの洗脳のおかげもあるけれど
沖縄のような激戦地には 決して訪れることがなかった
皇室お抱えの 霊能者の存在
その防御のおかげも あったと想う
細木数の子大先生にも 大物のお得意様がいると想うけど
この人がボケ始めていた昭和の思想家 安岡正篤と
半ば強引に婚姻関係を結んだのは 有名な話
この女占い師の手法は 陽明学者だった夫から受け継いだものとかで
安岡正篤自身も 時の政治家に対して
陰陽師的な役割をしていたと想う
戦 後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の 位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など多くの首相が挙げられる。
生前、「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つのいう意味だ」と平成の元号を考案したと言われているが、今をもって真偽は不明である。
戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたという。
安岡本人は「自分はただの教育者にすぎない」と考えていたため、「黒幕」と言われるのを嫌がった。しかし、自分自身が直接権力を持たない反面、権力者に対して絶大な発言力を持っていた。
白うさぎが跳ねている
http://kokuyouseki.blogspot.jp/2013/01/350.html
0 コメント:
コメントを投稿