2014年12月4日木曜日
縄文のゴンドラ
珍敷塚古墳
左端にゴンドラ
縄文宇宙文明の謎
石川県の真脇遺跡やチカモリ遺跡で見つかった縄文家屋の柱の太さは1メートルもあり、それより千年以上あとにつくられた奈良県東大寺の大黒柱よりはるかに大きい。
秋田県の能代市郊外にある杉沢台遺跡の縄文家屋は、長径31メートル、短径8メートルという、それこそ現代人の一般住宅をはるかに超える巨大な楕円形家屋だ。
そしてこのような縄文家屋に住んでいた当時の人々が、どれほど高度で洗練された生活をしていたかは、福井県の鳥浜遺跡から出土した漆塗りの櫛(略)を見ていただければわかるだろう。
この櫛は、想像力に乏しい学者によれば、たんに女性が頭につけたヘンテコな飾りものにすぎない。が、これはいまから三千年前にエジプトのカルナックに都を 定めて地中海・アフリカ世界を中心に世界を治めたエジプト・テーベ王朝(いわゆる第一八王朝)の女王が身につけていた櫛と同じものなのだ。
このようなすばらしい櫛が出土した福井県の鳥浜遺跡からは、西アフリカのナイジェリアやガーナでしか自生しない“ひょうたん”の種子が大量に出土している。また、アフリカと日本のちょうど中間にあるインドが原産地の“緑豆”の種子もたくさん見つかっている。
これらの事実は、いまから三千年以上前の日本人がインドやアフリカと密接なつながりをもっていたことを示しているだけでなく、紀元前10世紀から前8世紀にかけて栄えたエジプト・テーベ王朝ゆかりの人物がインド経由で日本にやって来たことをも意味している。
エジプトのセン・ネジェム王の墓には左図(略)のように特徴的な船の壁画が描かれているが、これとまったく同じ船の絵が九州の珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画にもある。
このように特徴的な船は“ゴンドラ”と呼ばれ、エジプト・テーベ文明の広がりとともに世界各地に伝播していったことは、すでにイギリスの高名なエジプト学者であるエリオット・スミスが証明ずみだ。
そして実際に、日本の大阪湾に面する縄文時代の港の跡から古代エジプトの“ゴンドラ”と同じものが出土したり、鳥浜遺跡がある福井県・若狭湾の別の遺跡から出土した弥生の銅鐸にも“ゴンドラ”が描かれている。
奈良県清水屋遺跡(天理市)出土の土器に描かれた古代の船(前頁)が外洋航海に耐えられる大型のゴンドラ船であったことは、新聞報道などですでに周知の事実だ。
縄文時代の日本人がこのような船に乗って世界各地をかけめぐっていたことは、ようやく最近認められはじめてきたが、当時の日本人の生活ぶりが現代とさほど変わらない高度なものであったことは、いまも相変わらず知られていない。
が、山梨県の釈迦堂遺跡からは当時の人々が使った水晶製のスプーンが出ているし、茨城県の椎塚貝塚からは上図のようにみごとな急須が出土している。長野県から新潟県、そして北陸地方にかけては芸術的に洗練された“火焔土器”が出ているし、青森県の是川遺跡からも現代と変わらない漆塗りの製品が大量に見つかっている。
縄文時代の八ヶ岳(長野県・山梨県)一体には、それこそ何十万人もの人が住み、“パン”を食べたり、“蒸し物”を食べていたことが、この地域から出土した 土器によって確かめられている。 当時の縄文人が現代人と同じような骨格を持ち、結構虫歯も多かったことは、いまと同じように食生活が豊かであったばかり でなく、現代人と同じような病気に悩まされていたことも示している。
スカンディナヴィアのメンヒル
このメンヒルには、ルーン文字が掘られているそうです。文字をアップしてみましょう。
日本では、イタズラ書きと言われそうです。
日比谷公園探訪記 2
http://kokuyouseki.blogspot.jp/2014/08/841.html
日比谷のスカンジナビアの石碑はメンヒルだったのね
こっちもルーン文字が刻まれている
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