2015年4月10日金曜日
女神の涙と4月の雪 2
連れて行かれる女たちのことで
想い出したことがある
秋篠宮は陛下にも皇后にも似ていない
とくにあのどんぐりのような丸々とした目は
切れ長の目をした両親のどちらとも違う
そんな疑問があったから
ふと秋篠宮の母親が元宝塚女優のカモ桜さんだと知って
写真を見てみたらその目がそっくりなことに
笑ってしまった
よく見ると目よりも平べったい低い鼻の方が
よく受け継いでいる
鼻は陛下も皇后様も鼻は大きくて
特徴があるので
これは確定だなと想った
天皇家のことだから伝統的に側室のような感覚で
血統に他の旧家の血を混ぜるのかな
カモだから賀茂氏?
そしてそれが天皇家の天皇家たる由縁なのかなと想った
昔から権力者たちは娘を差し出して血を混ぜて
閨閥を作ってきたし
皇室からしたらそれは人質に取るのと同じで
謀反を防ぐ
それは原住民のような被征服者に対しても行われていて
昔はきっと征服したいろんな種族から
娘を娶っていたんだと想う
それが本当の意味での征服なんだと想う
一族の娘を差出してしまったら
逆らえない抵抗できない
だから天皇家にいろんな顔が生まれるのかな
それは統治のためにも必要で
今は旧家のような貴族と血を繋げて
まあ旧家みんなで閨閥作ってその代表が天皇家?
女系を守るのとはまた別のやり方
美智子様が民間から初めて皇室に入られた時
白洲さんのような華族から猛反対があったんだけど
きっと皇室だけの問題じゃなかったのね
多分美智子様が皇室に入られる条件として
他の公家さんの子も
お世継ぎに入れる取引があったのかも?
それとも大正天皇やその昔から
そういう慣習がある?
そういえば佳子様だけ顔が家族と違うけど
二番目は本妻の子じゃないとか
密約がいまだにあるのかもねー
佳子様をさっさと嫁に出そうとしているのも
自分の子じゃなかったらありえるかも
雅子様は側室の子とか拒否ってるのかな
皇太子も
よくわかんないけど
佳子様が大学を行き直したのも
卒業を遅らせて嫁に出されるのを
遅らせているように見えてしまう
聞こえてくるのはサークルの話ばかりで
学問のことは伝わってこない
ならばどの大学に行ったって同じだろうに
わざわざ大学に入り直すなんて変な話
なぜ長州閥が実権を握っているのか考えていたけれど
単に今の天皇の系譜が長州閥から出ているせいかも
と想った
昭和天皇がわざわざ秋吉台の鍾乳洞に
秋芳洞という名前を名づけられたのも
地縁があるからでは
現天皇の系譜の地元だから
じゃなかったら天皇を狙撃した犯人の家族が
皇室ご用達の三菱財閥の要職になど付けないと想う
私は山口は島根
出雲を抑えている直感があるんだけども
明治以降天皇の系譜が長州の系譜に入れ替わったのは
滅ぼされた古代の大国
大和が滅ぼした出雲が蘇るのを
間接的に大和の王が防いでいるのではないかと
明治維新で大和よりも巨大な外国勢力がやって来た
それは1800年の大和の統治を揺るがすもので
まつろわぬ民たちの復讐が
いつでも起こりうる状況になった
だから長州から次代の天皇の系譜を生み出して
この地の血筋に力を与えて
支配の構造を作り上げたのかなって
明治時代に壊れかかった夢殿は
長州を基盤に再構築された
戦後アメリカ軍の占領統治時代が
一番日本の夢殿が機能しなかった時代で
財閥は解体されるは農地改革はされるは
旧家は散々だったんですけども
一方でこの時代に女性の性の解放――
占領軍の男たちと自由恋愛する女性たちや
ダンスホールで踊りまくるカンカン娘――
はこれまで大和が封印していた縄文の女性性が
解放されたという意見を読んだことがある
今では当たり前なことだけど
戦後のあの時代まで封健的な日本で
女性が自由に身体表現をしたり
自由に恋愛を楽しむことが公に許されたことはなくて
大和の男の権威が失墜した占領統治時代になって
新たに現れた女性たちに
昔の人たちは異民族の出現を感じたらしい
つまりアメリカによって大和が抑えていた封印が
図らずも解けてしまったという
そしてこのことは多分
黒船がやって来た時から大和の支配者たちは
薄々予感していたはずで
自分たちよりも巨大な勢力がやって来たとき
それによって自分たちが封印していたものが
解き放たれてしまう
その危険を察知して結果的に天皇の系譜が
出雲を抑える長州の系譜から
新たに生まれたのではと妄想してみたり
昭和天皇が秋芳洞に訪れて
お付の者の計らいでその名を授けたのは
大正十五年 まだ東宮だった時代で
大正時代最後の年 昭和が始まる前年だった
明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない
天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。しかし、そのツケは大きく残っている。昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。
裕 仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。もちろん彼に責任があったのは当然で、軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れであ る。彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、天皇家の存続だったろう。
何もできない天皇を装っているが、裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。女官とは、天皇家の女中さんではない。天皇のセックスの相手のことである。
明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。
ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、節子は16歳で裕仁を出産している。つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。15歳とは、今日の中学3年生である。中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。
大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。大正天皇は、病弱だったことも手伝って、節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。
女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。裕仁は1夫1婦制をとると同時に、宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、女官を住み込みから通勤制に変えた。つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。
この宮内大臣の牧野伸顕は
東宮だった昭和天皇に
秋芳洞の命名を発案した人物なんですよね
調べてみると薩摩の人で
明治維新後薩長が幅を利かせていたのは
わかるんですが
驚いたのはこの人は大久保利通の次男で
吉田茂が娘婿で麻生太郎は曾孫という
あの昭和の大閨閥の始まりだったんですね
つまり宮内大臣という
昭和天皇のお付をしていた家系が
戦後政治家として君臨したわけで
いくら政教分離で天皇家が政治に関わらないといっても
これだけズブズブだったら何も知らないはずがない
間接的には昭和天皇の側近から
戦後の大物政治家が生まれているわけで
本当にお力添えがなかったのか?
と穿ってしまいそうになるレベル
これは未だに変わっていないと想いますよ
象徴というのは建て前であって
日本のあらゆる政治動向に皇室の意向は関与している
もちろん原発政治にも
薩摩の大久保利通から始まった閨閥は
現在も三笠宮と繋がっています
なぜ大正天皇は話題に上がらないのか…何かタブーでもあるの?
0 コメント:
コメントを投稿