最近のアニメを観れば
小顔で 大きな目 小さな鼻 小さな口
けれど開けば 大きくなる口
まるで猫そのものの顔が
アニメの作画を支配している
最初はデフォルメされた それらの顔が
幼すぎて 面倒くさくなる
けれど慣れてくると 今度は
当たり前の絵が 猫のようにデフォルメされずに
もっと写実的な作画の絵が
面倒くさくなる
多分アニメは そんな感じで
猫化がエスカレートしていったのだろう
猫に関する作品が増えている
それは 武士の時代の価値観が崩れていくから
起きる現象
でも多分 本当は
猫だけじゃなく その先の
狼や 熊や
野生を残した動物たちの復活が 復権が
始まることを 意味している
人間の側にいる 犬と猫は
野生から 遠くなった存在で
その中でも犬は オオカミが絶滅寸前で
自分たちの原種 ルーツからさえも
遠く切り離され 野良犬も
ほとんど居なくなって 久しい
犬は最も 野生から遠ざかった 遠ざけられた
生き物と言える
猫は人間の側に居ながらも
まだ野生を強く残した存在で
両方に 両足を突っ込んでいるようにも見える
猫ブーム 猫の人気は
犬のような序列社会の終焉を意味していて
それは 行き過ぎた管理社会に対する
野生の復活の兆しともいえる
猫を見ていると 猫の額とはよくいったもので
絶えず怒って ケンカばかりしているw
他の動物に比べて 気性が激しく 闘争的
怒りっぽい性格
それが猫
象のように 大きな動物は
のんびりしているけど カバだって怖い
猫はそれらの動物よりも 器が小さいのか?
エネルギーいっぱいだから
喜んだり 怒ったり
できるのかもしれないよね
野生には いろんな色があって
そればいろんな種類の エネルギーがあることで
プリズムのように 互いを照らし合っている
その響き合いが 新たなエネルギー 力を生み
様々な種の 変化と発展を
促している
エネルギーを抜かれていると
人はイライラしたり 怒りっぽくなったり
不安になったり 悲観的になったりする
そういう感情を押し殺していると
今度は
体に異変が起きて
気づいたときには 体が参っている
怒りを溜め込むと 肝臓を悪くするという
肝臓は 沈黙の臓器と言われ
気付いたときには手遅れ
お酒が過ぎると 肝臓を悪くしやすいけど
それは怒りをアルコールで 紛らわしているだけかもしれないのだ
逆に 怒りを露わにしていると
常に自分に緊張を強いていると
心臓を悪くする
アメリカ人は高血圧で 心臓病が多いという
それは彼らが罪深いのかもしれないけど
いつもどこか駆り立てられている
いずれにしても 体は嘘をつかない
そして 生きるためには
同じことを 他人にするようになる
吸血鬼が 吸血鬼を生むのと同じ
無意識に どこからか調達してくるようになる
そうしないと本人が 参ってしまうのもあるし
単純に
気は濃い所から 薄い所へ流れる
構造的な仕組みにもよる
正当な怒りを抱えている人に 魂に
器が大きい人は怒らない
怒るのは 器が小さいからだ
これから取り返しを始めようという存在に
怒りを溜め込んでいる存在に
そういえば どんなに効果的だろうか
エネルギーを抜く人は
とても静かにしていることが多くて
気が薄いから もともとのエネルギー量が少ないから
怒ったり 笑ったり
喜怒哀楽をはっきり見せる
無駄な浪費を したりはしない
一見器が大きく 人格者のように見えるけど
実はヒルのようにべったりと
エネルギーの塊に
感情を放出する存在に張り付いて
自分の力にしていたりする
人の器など そんなに簡単にわかるもんじゃない
そして そんなものを気にするのは
特定の人たちだけ
多くのものを 集めて溜め込みたい
そう想っている魂たちは
潜在的に 器を探す
今都市が 何とか持ちこたえているのも
多くの養分を 吸血鬼化させて
吸血鬼が築いた社会に 組み込ませているからで
働かないと生きていけない
通勤しないと生きていけない
お金がないと生きていけない
実際現状はその通りに社会は仕組まれているから
その通りでもあるんだけれど
その仕組みはそもそも
皆がそう想っているから
そういう仕組みとして 機能している
そんな矛盾に 多くの人が組み込まれているから
雁字搦めにされて 動けない現実
逃げられない現実が 作られる
錯覚させることで 全ての詐術
この世界は 築かれた
古墳やお城
権力を示す 昔の造成物には
人柱として 生贄が作られた
私がふと想ったのは
もしかしたら 建築物
人が作る人工物は それだけでは
自然の力 緩衝に
抗うことができないと
信じられていたから 人柱が作られた
なんというか どんな仕組みも
人工的なものは
最後に それに命を吹き込むことで
生きた命を 吹き込むことで
自然物としての存在を許される
そんな意味もあって
人柱というのは ずっとあったんじゃないだろうか
人工物を 自然の物だと錯覚させる
自然の想念体に 見えない想念体に
生き物だと錯覚させる
人柱というのは
自然の想念に対しての
一種の詐術でもあったかもしれなくて
そうすれば 建築物や造成物は
厳しい自然の環境の中でも
生き延びることが許されて
しかもその大きさにより 多くの想念を集めたのかもしれない
そしてそれが それを築いた者の
パワーになった
ああだから 今の都市は
都市に集う人々は
古代建築の 人柱のようで
それがために それが成り立っているけれども
いつかそれが
錯覚だと 詐術だと
自然に 想念体に
気づいたとき
気づかれたとき
彼らはどこに 私たちはどこに
行くのだろうか
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