2011年10月14日金曜日

失われた十年

植物の力と  水晶の助けで  手探りで書いてきた  このブログ。


天然石のビーズで  ブレスレットを作り始めてから


アイディアが止まらない。


アメジストの直観が   ラブラドライトのイメージを広げ


水晶が パワーを与えて  オプディシアンが  古代へと誘う。


まるで覚醒が  またやって来たようだ。


気付いたら  新月前夜。


月の力で  書いている  書かされている。



魂が  集合無意識で管理され


人の才能も  運気も  付け替えられて


出会いも  縁も  演出されるなら


本当のことなど  本当のものなど


何一つなくなることになる。



本当に好きな人とは  うまく行かなかったり


なぜか結ばれなかった恋人たちや


中々売れない  芸術家たち


出世のチャンスに恵まれない  サラリーマン


彼らに繋がれたコードが  違うところに


引っ張られたり


付け替えられたり  しているのかもしれない。



出会いや縁ほど


人間の力ではどうすることもできず


見えない存在の手引きに


従うしかないのだから


これほど人の力が  無力なものはなく


だからこそ  人の意識や  想念の世界を


手にした者は  一層


操りやすいともいえる。




現実の世界での  人間の勝敗は


見えない世界での勝敗で


既に決まっていて


見えない世界の  大きな流れや


攻防が  時間を経て


現実となる。



集団プレーで管理されている  人間の集合意識に護られた  


強力な後ろ盾がつくαに

 
多くの人間の護りは  抗えども  敵わず


この世の不条理に  私たちが ただ嘆くことしかできないのは


私たちを護りきれなかった  守護霊たちの


嘆きでもあるのかもしれない。


そして  嵐が過ぎ去った後に  残された出会いに落ち着き


どこか腑に落ちないながらも  やっと一言「縁だね。」と


溜め息まじりに  私たちは言うとき


私たちに  出会いをもたらしてくれた  守護霊たちの


申し訳なさそうな  顔が浮かぶ。


才能や能力とは裏腹に  


芽が出なかったり  支持が得られなかったり


不運に襲われて  引き裂かれたり


チャンスに恵まれなかったり


そんな人たちが  安住の地に  辿り着いたとき


長い時間を経て  やっと


人の力では  どうすることもできない


魂の世界の存在を  知るのかもしれない。



この世界の不条理に  ただ翻弄される人々と


目立たないように暮らしながら  大きな不幸に襲われることなく


気がつくと  望むものは何でも叶い


陰日向に 全てを手に入れるものがいる。
  

人々が  その存在に気付いた時は  もうこの世を去ろうとしているから


その力に気付かれることはなく


その子孫がまた ひっそりと  しかし着実に 


同じように手にしつつあっても


人々は  自分の人生の荒波に  木の葉のように揉まれていて


彼らの力が  どこから来ているのか


知る由もなく  人生を終えていく。




世間での流行や人気も  


首をかしげるものが多かったりする。


ドラゴンボールと  幽遊白書。


私が昔から  謎に思っていることがある。


両方とも  作風が途中から ガラリと 変わってしまったのだ。


ドラゴンボールは   天下一武道会に至るまでの


宝探しが 作品の醍醐味だった。


ところが人気が沸騰したのは  天下一武道会での


バトルシーン  それはどんどん  凶暴で


残忍になっていく一方  ストーリーや  ギャグで見せる


作家のセンスが消え  作品の魅力が薄くなり  


単調な戦いが   繰り返されるだけで


作品のクオリティは  どんどん低下していった。


作者の鳥山氏は  本当は天下一武道会で終わりにしたかったのに


周囲が許さなかったという。


本物のアーティストであれば  質の劣化は耐えがたかっただろう。



幽遊白書も  タイトルロゴや  キャラクターの画風が表すように


当初はポップで楽しい作品だった。


それが  一変したのは        


まるで陰陽師や  呪術師の戦いのような  


血で血を洗うシーンが増え


作品から明るさが消え  残忍で非道な


イメージのシーンが 紙面を埋めるようになって 


爆発的な人気が 出たからだと思う。


少年誌だから仕方がないのかと  思っていたけれど


両方とも 気やエネルギーを使った  能力バトルで


漫画のコマは  ストーリーより  パワーバトルの描写ばかりで


霊界が好みそうな  共通点がある。


今思うと  この人気は   霊界や集合意識が


血筋の潜在意識に  メッセージを送り始めてから


作風が変わり 


それを受け取った血筋が  


熱狂的に反応したから


作品のクオリティに関わらず  異常な人気が出たように思う。



宮崎アニメにも  途中で集合意識が   大きく動いた節がある。  


「風の谷のナウシカ」「天空の城 ラピュタ」がヒットした頃


宮崎作品は  その優れた世界観で  アニメ映画を一躍メジャーなものにしたけれど


まだそれは  一部の熱狂的なファンに   支えられていたに過ぎなかった。


宮崎アニメが  国民的人気を得たのは


「となりのトトロ」からだけれども


その後の氏の作品が  初期の作品を超えることは  


未だないといっていいと思う。


にも関わらず  氏の作品が  日本を代表するアニメと呼ばれるまで


年を経るごとに  大きな支持を得るようになったのは


どうやら氏の弟が  電通に勤めていることが大きく  


盛んに宣伝され始めたのと同時に  


宮崎アニメがその時  集合意識の蜘蛛の巣と  


多くのコードを繋いだのではないかと思う。


宮崎アニメで  最も興行収入を稼いだのは


「千と千尋の神隠し」


夢殿そのものを描いたといってもいい  グロテスクな作品が


最も多くの人間に  観られたことは


血筋のバックアップなしでは  あり得ない。


この映画のCMを観た時 


ジブリの作品に対して  初めて嫌悪感と


かすかな疑念を持ったのを  覚えている。


自然との関わりや  現代の科学文明に対する警告を描いた  


それまでの  澄んだ作風からすれば  


禍々しさに満ちた  その異様な世界観は  


初めて私の関心を   ジブリのアニメから 


遠ざけた。




夢殿の集合意識で   ヒットする作品は  


潜在意識に  特定のイメージを植えつけることが  狙いであるので


ストーリーは散漫になり  冗長になっていく。


その暗号を受け取った血筋は  熱狂し


そのイメージに洗脳された受け手に  支持されるけれども


夢殿の世界に  繋がりのないDNAには


伝わるものが  何もなく


そこには何の  感動もない。



��000年以降  評価され  人気を得た作品は


ネガティブで  破滅的なイメージを   想起させるものが多く


人々を  強引へ夢殿へ誘い込む  勢力が


流行を作っていたように思う。


この時代に  景気が低迷し


ニートや不登校  自殺者や鬱病の増加


就職や結婚  出生率の低下に  拍車がかかった一方


搾取は進み   祭り上げられ  富を手に入れ  


格差社会の   二極化が進んで


富める人は  より幸せになり


貧しい人は  より不幸になり


心優しき人々ほど  胸を痛める時代になった。



自然のエネルギーが  結界を崩し


人々の目覚めと  意識が  加速したとき


作られた流行や人気が  張りぼてのようにしか  見えなくて


付け替えられた運や  才能や  出会いが


剥がれ落ちるときが  来たとしても


失われた夢が  あまりにも多すぎて


せめてあと10年早かったらと


思わずには  いられない。




天然石~1

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