2011年12月23日金曜日

『妖怪人間ベム』考 2

恐らく明治大正時代に生まれた妖怪人間たち。それは森の民サンカが山を下りて社会に組み込まれていった時代と重なりあう。人間に恐れられながら、やさしさを失わず流浪の民となった妖怪人間に、なぜか心を揺さぶられる。土地を奪われ山へ追われた縄文の魂が遠い記憶を呼び覚ますように。サンカではなくても、日本が戦争へ向うにつれ、人々がどんどん支配され管理されるようになっていくことに誰でも息苦しさを感じただろう。そんな息苦しさを感じた人々の集合意識がこの作品を生み出したかもしれない。今はそうやって作られた社会のの閉塞感が沸点に達しているともいえる。

この作品が一人の作者ではなく、制作会社によって作られたことも興味深い。個人のアイディアによって作られた作品ではなく、人々が共有している集合意識から作られたアノニマスな作品である。洗脳や指令によって作られた作品の中で、ポッと生まれ出てしまったような異色さがある。

流浪の民に郷愁を誘われるのは縄文の記憶のせいだろうか。多くの日本人の魂は、土地や村に縛り付けられ、結界を張られて封印されている。「砂の器」にも、らい病によって村を追われお遍路となって旅する親子を描いた壮絶なシーンがあって、近年になって何度もドラマ化されたり再放送されている。時代錯誤なこのシーンが、一番大きな見どころとなっていて観る者を強く引き付ける。神道系に「岡の因縁」という言葉があるほど、怨霊さんが色濃く息づいている岡山で、日本の因習にまつわるサスペンスを書き続けた松本清張の作品。

全く趣向は異なるけれどw「男はつらいよ」の寅さんの人気も、放浪の自由人という設定による所が大きいのではないか。放浪の自由人にはなぜかやさしさが似合う。そんなイメージを持っているのは日本人だけかもしれない。海外の作品で、流浪の民を扱ったものはほとんど観たことがない。ジプシーがいるはずなのに。それでもジプシーの存在に自由や楽しさを見ることはあっても、やさしさを重ね合わせているのはないような気がする。

平日昼間から3人で公園をプラプラしている妖怪人間たちをみていると、それだけでも稀有な存在に見えてしまう。社会の枠組みに嵌められなくとも生きていける彼らがとてもうらやましい~~~w大の大人が平日昼間に公園に居ることすら後ろめたい制度化された社会(インドに行けばいっぱいいるんだけどね(^^;)自然と通じ合うよりも、ロボットのように働かなければ生きていけない社会は、人からやさしさと繋がりを奪う。人間が生きて行く上で最も必要なものを奪われるような社会がそう長く続くはずがない。未来から振り返ってみれば、この時代が意外と短かったことにその内気付くだろう。


0 コメント:

コメントを投稿