ムー帝国参考文献 超古代文明より転載
ムー帝国諸説
このロマンに満ちた彼の大胆な仮説は多くの人々を魅了し、ムー大陸の名は理想郷的古代文明の地として知られるに至った。なかでも日本人のムーへの傾倒ぶりは世界でも類のないものがある。
音楽家の宮下富実夫さんや、画家でもある俳優の中島淳一さん、漫画家の美内すずえさんのように、ムーを題材とする芸術家やムーからインスピレーションを受けたと主張する芸術家が増えているし、学研のミステリー雑誌「ムー」の名もこのムーからとられた名である。
このように、ムー伝説が世に与えた影響は、精神的にもはかりしれないものがあり、文化的意義が大きい。
しかし一方、ムーについての学問的研究においては、最近はチャーチワードの模写に近い文化が環太平洋一帯に見られることは事実だが、海洋地質学上から太平洋に大陸が沈んだとは考えられないという観点から、太平洋は大陸は存在しなかったが、ムー文化圏といったものが存在したというとらえ方が主流となっている。
日本での研究の主なものを拳げていこう。
【金子史郎氏の説】
ムー文明圏というべきものが太平洋諸島にあったとし、洪水伝説は後氷河期の海面上昇や付近の火山活動など島々が襲われたからとしている。「ムー大陸の謎」
【竹内均氏の説】
専門的知識と多方面に渡る教養を持つ、雑誌「ニュートン」の編集長・竹内均元東京大学教授は、金子氏と同様にムー大陸はなかったがムー文明は存在していたとしているが、金子氏と違ってムー文明の源流を大陸に含めている。「ムー大陸から来た日本人」
【木村政昭氏の説】
数々の地震を予知したことで知られる海洋地質学専攻の木村政昭・琉球大学教授は、基本的に竹内氏の路線を推し進め、環太平洋文化圏(ムー文明)の中で実際に陥没した陸地があり、その幻のムー大陸そのものにあてはまるのが琉球古陸だとしている。「ムー大陸は琉球にあった」
なお、木村教授はチャーチワードが指摘した場所には一万二千年前にはないとし、その前提の上に「では、いっそのこと、これまでの検証をもとに、その周辺に比定地を探し、それ自体がムーとなりうるかどうか検証してみてはどうだろう。海洋地質のことはひとまずおくとして、チャーチワードのムー文化、とくにシンボルについてはかなりの真理を含むとみられるところから、太平洋の国々のどこかにその源があるとしていいようである」とし、沖縄で発見されている線刻石版を、チャーチワードのムーのシンボルの考え方に当てはめて解読することができたことから、沖縄をその比定地とし、「しんかい2000」で調査した結果、水没した海岸を発見している。
さらにその後の研究で教授は、沖縄の海底に沈んでいる巨大な石造遺跡を発見しているが、現在はそれをムーの遺跡とはしていない。
日本がムー文化圏であることはすでにチャーチワード自身が語っているが、晩年、彼はムーの最も有力な証拠は日本にあるはずだと語っている。
最後のムー大陸「日本」 神衣志奉より
ムー大陸
近年発達した深海底の調査活動によると「ムー大陸沈没説」はともかくとして、その一部とも考えられる陸地が、一万数千年前まで九州と台湾との間の相当広い範囲に渡って存在しており、それが海底深く沈没し、その後に海面上に残ったものとして薩南諸島が現れているということが科学的に実証されているのである。
すなわち、近年、伊豆半島の三原山噴火を予言していたことで知られている琉球大学の木村政昭助教授らの海底調査によると、屋久島と奄美大島の間のトカラ列島の水域の海面下一二〇〇メートルの海底では珊瑚礁から変成した石灰岩が発見されているし、沖縄本島のすぐ南にーの慶良間列島の沖の六〇〇メートルの海底からは象と思われる陸上動物の骨も見つかっているし、地上の洞窟の奥には大洪水---それは陸地の沈没によって引き起こされる大津波---のために流されて溜まったと思われる動物の遺骸も多数発見されている。
こうしたことから、このあたりの水域はかつて陸地であって、それが深海に沈んだことは今や疑いのないものと判定されている。しかし、このような重大な事実が一般マスコミには大きく取り上げられていないことは遺憾なことと言うべきであろう。
なお、一九六七年に那須市に近い具志頭村で発見された港川人の人骨は今から一万八千年のものであるとされている。そして、沖縄各地には七〇〇〇箇所もの洞窟があるが、その一部からは、その地に現在はいない種類のものを含め多くの陸上動物の骨が塊って発見されている。これは、チャーチワードが言うような大陸の沈没がこの近海で起こり、その際に発生した大津波により一カ所に集められたものと推定される。
ともあれ、与那国島近海で発見されたこの神殿遺跡こそ日本列島の巨石文化の中でまさしく極めつけのものと言うべきであろう。もし、それが縄文時代に相当する時期のものであるとすれば、従来の歴史像は完全に否定されるだけでなく、この一帯にはチャーチワードの「ムー大陸沈没説」が唱えるような太古文明をもつ陸地があったことになり、今回の発見はそれに科学的な証明を与えたものと言わざるえない。こうして、これまで唱えられてきた日本列島の文化の形成論や世界の四大文明発祥説は根底から覆されたことになる。その意味で、この発見はまさに革命的なものとされなくてはならないだろう。
こういう事実が示されると、浦島伝説や海幸・山幸説話に現れる海底にある竜宮というのは、「その昔、大宮殿のある楽園が海の底に沈んだ」という先祖からの言い伝えから生まれたものではないかと思われてくるではないか。
「失われた大陸ムー」の著者のチャーチワードは、著書を出す五〇年も前のころ、インドで奇妙な文様を刻んだ粘土版を発見し、そこに記されたものを「ナーカル文字」と名付け、「そこには「輝かしい文化をもった大陸が海の底に沈んだ」ということが記されていると解読できたことが大陸沈没説に取り組むキッカケになったのであるという。彼が「ナーカル文字」すなわち「ムー大陸」の文字と呼ぶものは、川崎氏らが紹介している
古代西アジアの石刻文字にも似ているが、それよりもっと酷似しているものがあるのである。それは、沖縄の各地の洞窟の中の壁や石塊・石板に記されている石刻文様なのである。そのうちの一つについて、地震学者の木村政昭氏は、「太陽の子が支配する国が海の底に沈んだ」という記録であると解読している。その判読の真偽については、なんとも判定はできないが、もし、これが本当のペトログラフであり、木村氏の読み方が正しいとすれば、「ムー大陸沈没説」はますます現実性の高い仮説となってくるだけではなく、日本列島の住民こそムー大陸文明を支えた人たちの直接の子孫ということになってくるのではなかろうか。
「異端から学ぶ古代史」澤田洋太郎・著より
古代秘話
この話は、戸来出身の田村源一郎氏から、著者が直接聞いた話をまとめたものである。
俳人の高橋菊翁が、その孫に当たる高橋タカさんに語ったものを、田村氏がタカさん(もちろん個人)より聞いたものだというが、最初に七十過ぎのご老人の口から、“ムの国”と聞いた時、大いに驚かされた。
当然のことながら、チャーチワード氏の著作を知るはずもなく、著者自身も田村氏にムー大陸の話をしたこともないのに、戸来にこんな話が伝わっていたとは思いもよらなかった。
そこで、『古事記』同様、少々エロチックな部分もあるが、記録の意味を含めて、ここに記しておくことにする。
その昔、太平洋上に「ムの国」があり、五色の人種(白、黒、黄、青、赤)が人種差別もなく、仲良く住んでいた。そして年に一度、各人種が集まって来てお祭りを行っていた。
しかし、何万年前のことかわからぬが、「ムの国」は海中へ陥没してしまった。その「ムの国」より生き残った三人の男が日本に辿りつき、内、一人は現在の青森県の八戸港から“八太郎”という所に上陸したが、まだ日本の陸地はドロドロしていてよく固まっていなく、その男は安全な高い所を目指して奥地に入って行き、戸来にやって来たのであった。こうして最初の日本は男ばかりの世界となった。
一方、当時のシナは女ばかりで、そこから遊女たちが日本の長崎へやって来た。そこで、どこでどう会ったのかわからぬが、男ばかりの世界へ女が来たので、世の中がパーッと明るくなり、男たちは喜び、「アマ(女)が世を照らすようだ」---「アマ照らす」となり、言葉は神也で、これが天照大神となった。
そして遊女たちも、女ばかりの世界から男のいる世界へ来、男の性器を見て「珍しい棒---珍棒」と呼び、これで陰陽完全なる世界が完成したという。
そしてまた、先祖(ムの国)を偲び敬う心から、冠婚葬祭はすべて「五色の旗」を使用することになったという。
「異色古代史・イエス・キリスト日本で死す」絵守きよし 著
「戸来」は青森県にあり「ヘライ」と呼ぶ。そのためヘブライが訛ったものではと言われる。確かに普通なら「トライ」「コライ」と呼ぶだろうし・・・。青森は八戸のように「戸」を「ヘ」と読ませるのはなぜだろう。そういえば神戸も「コウヘ」が訛ったものかもしれない。「ヘ」と読ませる方が語源が古いのかもしれない。
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