2012年4月16日月曜日

遊女桜

春の嵐が吹いた   昨日の雨風の後


桜から妖気が消えていた


そういえば昨日は  411


昨年も   311に次ぐ地震があった日だ


強風や大雨は   迷惑なものかもしれないけど


樹木さんが起こす風には


何か意味があるのかもしれない


台風や嵐の後は


いつも空気が澄んでいる




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染井吉野 wiki

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)JR巣鴨駅付近の染井霊園に名を残している。また、この辺りでは大名庭園には欠かせなかった霧島ツツジの改良も盛んだった。JR駒込駅の土手に春になるとツツジが多いのはその名残である。この地域に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜」として売り出していた。名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「‘吉野’」「‘吉野桜’」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「‘染井吉野’」と命名した。

明治初年に樹齢100年に達する ‘染井吉野’が小石川植物園に植えられていたという記録や、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋の記録に ‘染井吉野’を作出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは染井村起源説を唱えている。この植木屋の記録により、1720-1735年ごろ、駒込の西福寺に墓の残る当地の伊藤伊兵衛政武が人工交配・育成したとの推定もある。これによって、現在では染井村起源という可能性が有力である。

欧米には1902年にサトザクラ‘関山’と共に渡米している。欧州やアメリカに多くの ×エドエンシス‘染井吉野’(狭義のソメイヨシノ)が寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメイヨシノが有名である。
現在もほぼ日本全域に植えられている最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。


染井吉野
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大島桜
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並べてみるとそれでもやっぱり艶めかしいね。染井吉野は(^_^;)
染井吉野の起源は巣鴨周辺・・・。昔の赤線地帯だね。
品種改良によって生まれた染井吉野は、遊女さんたちの怨念によって作られた気がしてならない。

巣鴨について調べていたら見つけた記事。

「江戸の遊郭」

「・・・今となっては一番、なじみの深い『遊女の投げ込み寺』とされているのは、都電・荒川線の『三ノ輪橋停留所』であるか地下鉄の『三ノ輪駅』の近くの『浄閑寺(じょうかんじ)』ということになる様でもあるが、でも、巣鴨付近に点在する引越しして来た歴史のある寺には、遊女との謂れが大なり小なり在る様でもあるのである。
それにしても、三ノ輪の『浄閑寺』を訪れてみて驚きました。『浄閑寺』は『投げ込み寺』といわれ、遊女の死体の始末に困った者が、遊女を投げ込んだお寺と言われていますが、真実はちょっと違うようです。
 何でも、本来の『投げ込み』と言うのは『心中』『枕荒らし』『起請文乱発』『足ぬけ』『廓内での密通』『阿片喫引』等吉原の掟を破った物が折檻され死んだものが素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれてお寺に投げ込まれることをいうそうです。之は人間として葬ると後に祟るので、犬・猫並みに扱って『畜生道』に落とす、と言う『迷信』から来ているものであると言います。 ですから、表立って『投げ込み寺』と言われていたかと言うことになると、多くの疑問が残ると言います。『浄閑寺』には遊女たちの『過去帖』と言うものが残っているのです。
 その遊女達の『過去帖』と言うのが、実に10冊を数えると言うのです。その数にして凡そ2万5千人と言われているのです。そして更に、驚くべきは、それに記録された遊女たちの年齢なのです。ある人の記録によると平均年齢21と言うのです。ほとんどの遊女たちは若くして死んだと言う事なのです。 其れを見ただけでも『遊郭』と言う所が、どんなところであったところなのか想像に難くないと思うのです。

とかく、近くには『見返り柳』等があり、客の情緒を偲ばせるものともされる物なのですが、素直に信じられない物でもあるのです。むしろ『お歯黒掘り』などの存在が遊女達の人生を象徴する物であったのです。
 彼女等は幼くして、東北などの田舎から、人身売買よろしく、『女衒(ぜげん)』などの手によって売られてきた女性でもあったのです。おそらく、当時は何も判らずに・・と言う状態だったのでしょう。それから年季の明けるまで、彼女等は何を考えていたのでしょう。『情緒』などとは無関係とも言えたかも知れません。

 遊女等は一日に五人の客を取る事を要求されていたとも言われます。とても情緒など何処にも無かったと言えそうなのです。彼女等の生活が、如何に、明日無き生活であったのか『生まれては苦界 死しては浄閑寺』と言う『新吉原総霊塔』の言葉が心に残ります。
 『遊女三千人』と言われた『吉原』はそんな所でもあったようなのです。・・・」



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徳川の、江戸幕府の維持のために犠牲になった東北の魂。
遊女は恐らくほとんど東北出身だったと思われる。西日本や南方の暖かい地方は、どんなに貧しくても食べ物だけには困らない。冬でも野菜は育つからだ。口減らしに娘を売るぐらいならむしろ労働力にするだろう。吉原が徳川幕府が繁栄したのも、東北の魂を、エネルギーコードをがっしり掴んだせいではないか?

天下泰平の世とは実はガソリンのように注がれた東北の養分の存在があって初めて築かれたものだった。
その怨念が何もしないで消え去ったりするだろうか?
その後日本を軍国主義へ誘ったのは、敗戦は、日本が自ら引き寄せたものではないか?
GHQのおかげで赤線は事実上解体された。

遊郭に情緒なんかあったわけじゃない。映画や文学作品で描かれている虚構は、その魂を美味しく頂いた血筋によるものか。実際は遊女というより性奴隷として惨憺たる地獄絵図が繰り広げられたと考えられる。
恐らく日本の暗部というか、現在でもねつ造された?慰安婦問題が決して消えて無くならないのは、実際過去にそのように女性を扱っていた日本人の記憶が、歴史が、潜在意識にあるせいかもしれない。

合掌(-人-。)

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