たまの『電車かもしれない』という曲が
2003年にアニメーションになって話題になったそうです
電車かもしれない
ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて君を待っている
ホラ もうそろそろだよ
物理の成績の悪い子どもたちが
空中を歩き回る時刻
夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち
ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて君を待っている
ホラ 寂しい広場では
まるで算数を知らない子ども達が
砂を耳からこぼしているよ
台所ゴットン電車が通るよよそのうちの中を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち
夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち
水子の霊を歌ったような歌詞
なんとなく 水子の霊は
電車に乗り移っているのかもしれないと想った
なにが「かもしれない」のかわからないけど
「電車かもしれない」は
電車は(水子の霊が乗っている)かもしれない
空中を歩き回ったり
耳から砂を出したり
生きている子供のイメージじゃないですよね
水子という生まれることができなかった子供だけでなく
もっと広い意味で まだ宿りきれないで待機している
たくさんの子供たちの想念・・・のことかもしれない
私の家は線路がすぐ近くにあったんで
台所ゴットン電車が通るよよそのうちの中を とか
夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を
のイメージがすごくよくわかるんですよね
電車が通る轟音は家の中まで入って来るし
日中は学校に行っていないけど
夕方下校時刻や家に帰る時間帯は
電車も帰宅ラッシュで本数が多い
夕焼けの中を走る電車
日が沈むころ 電車がたくさん走っている
そしてそんな夕暮れ時の時間帯は
あの世とこの世の境目のような時刻で
水子の想念が現れやすいのかな
子供たちが広場から帰る頃
台所にいるお母さんの所へ帰っていく頃
電車が家の中を台所を通るのは
水子の霊がお母さんの所に帰ろうとしているようで
なんだか切ない
宗教団体が起こした地下鉄の事件
運命の果実をいただきましょうのアニメでも
電車内が運命の行く先を変える
運命を乗り換える 重要な場所になっている
電車というのはオカルト的な霊場になっていて
それは電車に水子の霊が宿っているせいかもしれない
と想ってみたりする
ピングドラムでも 子供ブロイラーとか出てくるけれども
「選ばれた子供」と「選ばれなかった子供」
「選ばれなかった子供」=水子だと考えれば
あのアニメに水子の想念が描かれていても不思議じゃないかも
ピングドラムの 電車の中で運命が乗り換えられるという設定は
水子の想念を乗せている電車では
想念が入れ替わることができる
だからあんなアニメが生まれたのかなと想う
あの宗教団体の名前は鳥の名前
鳥使いたち 鳥の血筋が運を付け替えるために
地下鉄で事件を起こした 起こさせたようにみえる
事件の死者は13人だけれども
被害者は6000人以上いて
ざっと計算しても3796人の方が重症で
なんの補償もないまま 後遺症に悩まされている
6000人以上の未来 運を
地下鉄の事件は付け替えたわけで
それはまるで子供ブロイラーのように
地下鉄の事件によって運をすり潰された人たちが
6000人も生まれたということ
当時あの宗教団体を面白がって取り上げた芸能人たちは
いまだにメディアで健在だし
あの宗教団体を持ち上げたといわれる
いくつもの黒幕たちも暗躍しているだろう
ポールは日の丸をTシャツにして成田に来日した
まるで狙ってくれといわんばかりの
大きな赤い丸をつけたTシャツで
ものの見事に狙われてしまったのか
日の丸の意味を知っていたら きっとあんな恰好しなかっただろうに
地下鉄の事件の現場は
丸ノ内線・日比谷線・千代田線
これ 全部天皇制にリンクする名前・・・
(赤い路線の丸の内線は日の丸に見える)
警視庁がある霞ヶ関を狙ったと言われたっけ
実は神田に通う親戚も この時危うく遭遇しかけた
あと一本遅い電車に乗っていたら
事件に巻き込まれたと言っていた
ずっと盾にされてたんだな昔から。。。
でもこの事件おかしい
霞ヶ関に通う官僚たちを狙ったといいながら
もっともたくさんの液体がまかれたのは日比谷線の秋葉原で
亡くなった被害者のほとんどは隣駅の小伝馬駅や
その先の八丁堀・築地駅で搬送されている
霞ヶ関から遠いですよ
国家転覆を図って 霞ヶ関を狙ったにしても
結果生贄を捧げたようにしか見えない
計画とは裏腹に そういう風に動いてしまった
動かされてしまったのかな
平成に入って7年目の出来事
この年の1月には阪神大震災
たくさんの犠牲者と被害者が生まれた年
7年目の時の結界 平成の結界のために
盤石を張ったようによう見えるのはなぜ
1995年3月20日
それは起こった
20年後の 2015年3月20日
北極で皆既日食を迎える
2014年に始まる「天のしるし」
「輪るピングドラム」が「まどマギ」よりも悲しいかったワケ
そういえば、一つの平凡で平和な世界は、別の世界における他者の犠牲の上に成り立っているという結論は、まさに昨年春のヒット作『魔法少女まどか☆マギカ』のテーマでもあったが、この『輪るピングドラム』で訴えかけてくるこの世の摂理は、『魔法少女まどか☆マギカ』における意志的な救済に比べると、見方によっては、より、悲しいものだったように思う。
つまり、『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかが最終的に下した決断によって、新しく魔女が居ない世界が現出させたのに対して、『輪るピングドラム』では、「運命の果実を一緒に食べよう」という呪文によって乗り換えられた運命の先は、必ずしも望みが叶えられた世界ではなかったからである。
考えてもみれば、ピングドラムというリンゴ(=果実)は、冠葉から晶馬へ、晶馬から陽毬へと渡され、(比喩的な意味で)共食されることによって、三人の「絆」の象徴となったことは確かだが、・・・
1995年のオウム地下鉄サリン事件や、1997年の神戸連続児童殺傷事件をも敢えて思い出させるような”毒”を吐きながら怒涛のような展開を見せる。
ご存知の通り、「透明な存在」というのは、あの酒鬼薔薇聖斗が、その犯行声明文に記した、現代の子供達を表す言葉だが、・・・
思えば、今年流行したと言われた「マルモのおきて」や「家政婦のミタ」、そして「うさぎドロップ」にしても、血の繋がっていない他者達がいかに、擬似家族を「本当の家族」のように構築していくか?という話であったが、おそらくこの『輪るピングドラム』もその作品群の中の一つとして記憶されるに違いない。
僕は、以前よりずっとこの丸の内線に、新宿三丁目、四谷三丁目、本郷三丁目という具合に三丁目という駅が三つもあることが気になっていた。というのも、戦後の都市伝説の多くが三の数字をキーナンバーとして展開されたいたからである。
「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。
さて、僕は日本に、そして日本民族の心の底に流れている壮大な物語は怨念と鎮魂のドラマだと思っている。
日本人は無意識に、怨霊を発生させないように、立ち振る舞う(和の精神)。そして、万が一、発生してしまった怨霊に対しては、人々は、心清らかにして善行を積み、手厚くケアすることによって、その怨霊を御霊にコンバートし、逆に、自分達を守ってもらおうと考える(神道)民族なのである。しかし、御霊もまた逆に怒らせてしまえば、それは負のパワーとなって僕らに災いをもたらす。僕らはそうして想念の力を、あるときは恵みを与える神として、そしてあるときは、災いをもたらす鬼神として扱ってきたのである。
だから、日本の代表的な怨霊、例えば、平将門、菅原道真、崇徳上皇等は、一時は災いをもらたしたが、人々の信仰によって、現在は、神田明神、天神様、そして金毘羅様というような御霊となっていると考えるのである。さらに言えば、靖国の英霊を顕彰しなければならないと考えるのは、それらが怨霊化しないようにするためだと僕は思っている。
僕がこの「魔法少女 まどか☆マギカ」に感じたのは、そういった古来の日本の宗教観と同質なものである。それは、闘い敗れた者たちを理解したり、その想いを汲み取ろうとするというのではなく、どちらかと言えば一方的に鎮魂してしまおうとする残された人々のエゴ、つまり、神化することによって一方的に思いを封殺してしまうという残酷物語がそこに見え隠れするのである。
「まどか☆マドカ」の文脈で言うならば、この世界の僕らはけっしてまどかの気持ち、そして存在すらも分らないで勝手に神として祭るだけということなのである。
それは、まるで、現在(2011年4月末日)を生きる日本人全てが、現実として心のどこかで持たざるをえない絶望と希望、そしてその連鎖を「食べる」ことによって肥大していく冷徹な最新の資本主義の残酷物語ともシンクロしているように思われる。
ピングドラムで 運命の果実を共食いし
魔法少女で 絶望と希望のエネルギーを「食べる」
この二つのアニメに救いが見えないのは
共食いし食べることを肯定する
肯定したい
そんなグロテスクな思惑が見えるからかもしれない
描いているのは想念の世界のカニバリズム
ピングドラムではそれは 家族の間で起こり
魔法少女では 少女たちの献身が犠牲になる
現実が入れ替わる前に
人は夢を奪われていることに気が付かない
現実で人が犠牲になる前に
夢の中で 想念の世界で
夢の種が食われていることに気が付かない
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