2014年2月11日火曜日

さきたまの風水 1  坂東太郎

利根川は   根っこの川


利の根っこの川


富の源泉


荒川の   荒は   荒ぶる神


アラハバギの   アラ


縄文の神   縄文の川





縄文人は   縄文人の末裔は


川の側に住んでいた



江戸結界の護り人   付け替えの拠点は


利根川が付け替えされた辺り


それは   鉄道の鉄の結界よりも


古い結界だから


川の結界の   付け替えの護り人は


この辺りに   転生する


利根川と   荒川の間


絶妙な位置にある   さきたま古墳


付け替えられた利根川が   分岐する所に位置する


ストリップ小屋のある   栗橋


古代の想念が眠る場所と   


古代の想念を鎮めるかのごとく   女神たちが舞う場所


川の血筋は   川の付け替えの場所に


生まれ変わる


とくにこの辺りは   縄文の魂が   想念が


川のそばに   宿っているから


水を求めて   やって来るから




この土地の人たちには申し訳ないけれど


土地勘がないせいもあって


私にはこの辺りは   昔からあまり


気の進まない場所


私はきっと偏見が強いんだろう


自分の知らない土地が   恐いんだろう


JRがあまり好きじゃない


JRと   利根川   荒川に挟まれている


このエリアにきっと   強い封印を感じている


古墳もあんまり好きじゃない


封印そのものだから


私がこの地域に   苦手意識があるのは


封印係がたくさん   転生していて


付け替えた川や   鉄の結界が


強固に張られているせいかもしれない






神田川は   吉野川を模して


東京の風水は   作られているというけれど




利根川は   吉野川を模している


だから   銚子の方に真っ直ぐ


四国の吉野川のように


東へ向かって   東の河口を目指して


付け替えられた



そんな言葉が   突然頭に降りて来た


   

そういえば   利根川の下流には


香取神宮がある


香川県と   香取神宮


香ばしいね



利根川の東遷に着手したのは   家康だけれど


それをさせたのは   たぶん   四国の想念


神田川が   江戸の風水だとしたら


利根川は   一回り規模を大きくした


関東の風水を   司っている


そうやって   元の風水である   吉野川のイメージを


いくつも上書きして   コピペして


その土地の想念を   四国を基点として


操縦している



川は水の流れ   動く水の流れ


古代より   人は川の側に集まって  


集落を   文明を   築いてきた


人の深い意識は   川が生命線であることを


記憶していて


人の意識を   知らずに動かしている


夢殿にある  川の風水は


現実に   反映されるとき


東京は   神田川


関東は   利根川になっていて


神田川の源流   井之頭がある吉祥寺に


血筋が集まるように


利根川が   付け替えられたポイントが


吉祥寺のような   高位の階層のエリアになっている






東京湾に流れ込んでいた川を   わざわざ太平洋に移すなんて


鬼怒川や   他の川が


銚子に流れ込んでいたから


利根川を付け替えなくても   いいような気がする


洪水対策   江戸の治水事業


専門的な理由が   あるとしても


川は結局   もとの流れに戻りたがるもの


それなのに   こんな大規模な   付け替え事業を興して


家康の時代から   何百年もかかっていて


そこまでしないといけない理由は


他にもあるような気がするのだけど





坂東太郎   筑紫次郎   四国三郎


利根川   筑後川   吉野川

  
日本の三大暴れ川


まるで血のつながった兄弟のように   呼ばれるのは


関東  四国  九州


川の血筋の末裔が   それぞれ司っている


そんな合図かもしれないね




   






利根川東遷事業

しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期にはたちまち船の通行を困難にした。

更に天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。・・・このため行き場を失った水は逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。・・・パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施され、この浅間山大噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは、戦後も高度成長期以降のことである。

明治初期に至るまで、治水上の「利根川の本流」は確定していなかったという。その理由は、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、勾配もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからとされている。また、明治初期まで利根川を中心とした水系は物流の基本インフラであった。



やらない方がよかったんじゃ

しかもいまだにこの東遷事業は完成していない


利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま埼玉県側の堤防だけを強化する「首都圏氾濫区域堤防強化事業」が進められ、利根川下流域の対策が後回しにされている。


利根川を吉野川にするために始められた
無理な付け替え
洪水や水害によってたくさんの人が亡くなり
被害を生み生活を圧迫した
まるで吉野川に捧げるように

紀伊の吉野川でたくさんの命が流されたように







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