2014年2月12日水曜日

さきたまの風水 2 中山道

利根川が付け替えられた辺りを探してみると
利根川沿岸の地名は
一癖ありそうなものばかり

苦手な理由がわかるかもしれない



羽生市の歴史
利根川沿いの羽生のまちは、水利がよく土地も肥え、早くから農耕文化が栄えたところで古い塚や古墳、出土した埴輪はそのことを証明してくれます。このため羽生の地名は埴輪から転化したものだといわれています。歴史上、羽生という地名が出てくるのは文明10年(1478年)の太田道灌の手紙に「武州羽生の嶺にたてこもり」と書かれているのが最初です。

昭和44年 フィリピン共和国バギオ市と姉妹都市締結
昭和56年 羽生水郷公園オープン
昭和58年 県営さいたま水族館オープン



埴生の宿


羽生市が香ばしいなと想ったけど
ちょっと田舎すぎるかな・・・
でも はにゅう って  羽が生まれる
鳥たちが生まれる地
結構オカルトな響き


埴生の宿を聞くと条件反射で涙出て来そうになるし・・・
(『ビルマの竪琴』『火垂るの墓』のせい)


『ひぐらしのなく頃に』にも
はにゅう(羽入)が出てくる
超絶オカルトなキャラだった

五輪に出ている羽生さんや
将棋の天才の羽生さん

珍しい?名前なのに天才たちを輩出している
偏ってますよね


他に幸手市とか久喜市とかも気になる
幸手はコードそのものだし
久喜も植物の茎を連想させる



埼玉の気象台は熊谷にある
東京は大手町  千葉は銚子  神奈川は横浜
群馬は前橋  茨城は水戸  栃木は宇都宮

どこも県庁所在地だったり
県央だったり  歴史的に重要な場所なのに
埼玉は北の端にある熊谷
もちろん県庁があるわけでもない

千葉の気象台が銚子にあるように
気象台はコードを付け替える
風水のポイントになっている場所かもしれない

結界を見張る灯台のようなもので
そこで気象の変化を計測させて データを取っているのも
そこが結界の境界だから?


熊谷雑感

気象台が出来た明治時代
埼玉で繁栄していたのは熊谷だった模様

熊谷もあやすぃ


とまあ
こんだけ怪しい地名が多いということは
埼玉北部は利根川や荒川の付け替えもあって
オカルト色が強いのかもしれない
だからちょっと感じるものがあるんですよねぇ


見沼も引っかかる
見沼区はさいたま市にあるので
県西にありますが
行田市の利根川大堰から見沼用水を流している

沼を見るってまんまだしね

さいたまの二大古墳もあり  利根川大堰もある
行田市も本当はオカルト
元は忍町(おしなまち) 忍市だったのを
市制施行時に行田にすぐ変えたとか

忍市だったらすごいよね・・・w
超オカルトだったのに
忍市で市制施行して慌てて行田に変更したはなぜ?

忍 と書いて おしな って読ませるのも不思議
しのぶ ならわかるけど

おしな は 御品

メニューのこと 御品書き というよね
さすが真名板古墳があるところ


うーん
あやすぃなぁ



利根川東遷概史
利根川治水



明治時代に熊谷が栄えていたように
埼玉の血筋は県北に集中しているのかもしれない
吉野川に住む四国の生粋の血筋の末裔が

歴史のある古い町が県北に多い気がする
そうだ 中山道が走っているんだここは
だから旧市街が多いんだ

中山道は江戸五街道のひとつ
木曽路とも呼ばれる


還暦からの中山道 
中山道


中山道はJR高崎線や埼京線沿いに走っているから
幸手や久喜は遠い
熊谷行田を走っている

江戸五街道が明治時代まで
主要幹線道路だった

道と川しかインフラがなかった時代
この道なくして町が発展することはなかった

埼玉の自動車免許試験場が鴻巣にあるのも
埼玉の中心は長らく中山道のある
県東 県北だったのね

今でこそ東京に近い県南に人口が増えているけど
たった一つしかない試験場が県北にあるせいで
その他の県民はえらい迷惑してるんですよ~


あっ
幸手も栗橋も五街道にある
日光街道だ!


五街道の旅
江戸五街道

中山道は中央構造線を辿っているようにみえる


五街道と全宿場
五街道全宿


日光街道は東武日光線がなぞっている

ふむむ
やっぱり県北に旧市街が集中している
これに比べたら県南県央なんてただの田舎
(秩父山地の県西は自動的に除外)


とりあえずあやすぃと想ったところは
それなりに理由がある気がした

さいたまの県北には
利根川の東遷と
日光街道 中山道が集中している
どれも江戸時代に開拓されたインフラ  江戸風水

東海道とか甲州街道がメジャーだけど
流通が集中している  結構珍しいエリアだと想う


江戸時代  関東の中心はきっとここら辺
今と違って大分東よりだった
だから江戸の中心も 古い街が多い隅田川荒川界隈の
今では下町となっているエリア
広重の浮世絵に出てくる日本橋や隅田川




安藤広重(今は歌川広重と呼ぶらしい)のうぃきを見ると
東海道五十三次だけじゃなく木曽路や甲州街道も描いている

たぶんね広重は幕府の息がかかっていたと想うよ
発表している作品は江戸五街道や当時の要所が多い
写真のない時代  広重の風景画は貴重な情報だったから

天保3年(1832年)、36歳の時に正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。


広重の作品は素晴らしいけど
成功して名声を確立できたのは幕府の強力な後ろ盾があったおかげ
1年足らずで雲隠れしてしまった写楽とは大違い


広重の作品がヨーロッパに流れて
ゴッホや印象派に影響を与えたのは
幕府の要人の中に外人がいたからで
鎖国していた江戸時代でも
海外に日本の地理や内情は筒抜けだったと想う


天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。


幕府お抱えだったのね

広重の風景画をみれば
その当時どこが日本の要所だったのか
繁華街だったのかわかると想う
ただきれいな場所を選んでいたんじゃなくて
オカルト的にも重要拠点
エネルギーポイントを描いていた

まあ成功したいなら伊豆大島を描けと言ってた
大正昭和の画家のように
エネルギーのない所が画題に選ばれることってないからね

広重の風景画は結界ポイントの重要情報として
重宝されたと想う

『甲陽猿橋之図』
うぃきにある聞いたことない作品
猿橋ってどこじゃいと想ったら
山梨県大月市猿橋町猿橋
トンネル崩壊事故のあった大月ICの近くですよ
当時のフジヤマエネルギー付け替えスポットですお

江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。


三大ナントカとか  持ち上げられるものは
結界ポイントをお知らせするものが多いと想う
言い伝えやことわざが伝承を伝えているように





山の手・下町と城南・城北

江戸城(皇居)を真ん中にして
城北と城東が江戸時代の流通の中心


鉄道網の発達で  東京の中心はだいぶ西へずれた
江戸時代の世田谷は今の八王子に等しく
今でも世田谷を田舎扱いする江戸っ子がいる

今の23区内が東京の中心だとしたら
江戸時代はそれが山手線より東~江戸川まで
だから山手線は 山の手と呼ばれた

山手線の西端  新宿に都庁が出来たのは
昔だったら23区の端  吉祥寺に建ったようなもので
(もはや23区じゃないけどね)

実際都庁が新宿に出来た時
東京の中心が西遷している現実を目の当たりにして
昭和の文化人が衝撃を受けていたのを覚えている
確かに吉祥寺に新都庁が出来て
八王子が世田谷化したら  私もびっくりする
時代を感じずにはいられない

河川で作り上げた江戸風水が
鉄道によって出来た東京風水に上書きされたとき
都の中心  都心も西遷された


それでもそれ以前の結界がなくなったわけじゃない

だから城南にあった港区の東京タワーの電波塔を
城東の墨田区のスカイツリーに移した

スカイツリーは西へ傾きすぎた都の中心を
東へ戻そうとしていて

いまだに江戸結界が健在な証拠でもある







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