少し大きめの太陽フレアが発生したその夜
ちょっとだけ夢を見た
夢の内容は 過去の記憶や人物
雑多なものがごちゃごちゃしてて
書くほどのものではないんだけど
その中で私は
教室のような所で 問題を出されて
「廃墟となる場所を書け」
というものだった
その問題は難しいものではなく
��っつほど例を挙げるんだけど
一つ目は全員正解していて そこは
川島町だった
二つ目はもしかしたら?
狭山市だった
三つ目は覚えていない
特に意味があるような夢じゃなかったんだけど
川島町!って随分強く言われたので
書いておく
そして夢の中で教室の後
生徒たちが皆で真夜中に 線路沿いをだらだら歩きながら
どこかの駅に見学に行った
そこは廃墟どころか 透明なエレベーターがある
ピカピカの駅で どこの駅かはわからないけど
終着駅であることは確かだった
川島町・・・・ってどこだったっけ
埼玉の南の方じゃなかったっけと想っていたら
川越 大宮の隣だった
廃墟になるほど 何かがある所でもない
田んぼばかりの 地味ーーーーな田舎・・・
だけど案外こういう所が 昔のままの面影を残して
想念の世界で この辺りに
過去に何かあったかのかもしれない?
ただの夢からは何もわからんー
この町は 荒川の上流にあって
入間川が流れ込む 合流地点だった
地図で見ると 川島町という名前のごとく
北と南が 両川に挟まれている
ふと想ったのは
江戸 東京に流れ込む
荒川の上流にあるのなら
ここから川下に
いろんなモノを投げ込むことができただろうな
ここが何かの基点
水の流れ 川下の流れを支配する
想念の世界での 何かの基点かもしれない
ただふとそんなことを 想った
狭山市はなんでだろう
調べてみたら
川島町で荒川に合流する
入間川の上流にある地域で
地名にも 狭山市入間川という所がある
狭山市駅は昔は 入間川駅だったとか
気が付けば
川島町と狭山市は 川越市を挟んでお向かいさん
それが入間川を通して繋がっているのか
この入間川は不思議?なことに
埼玉の南から北上して 荒川に合流している
恐らく秩父山脈から流れ出る水が
武蔵野台地の周りをぐるっと回って
まるで囲い込むように
海抜の低い大宮周辺に 縄文時代は海だった場所に
流れ込んでいるのだろう
なんとなく この二つの川が
関東の いや多分 さいたまの
結界の一つのような気がした
そしてそれが本当に結界だったとしたら
この川に近い町に
何かしらの変化があるかもしれない
入間川-荒川のライン。立川まで伸びると西武線がすっぽり入る。
入間川
古くは荒川は東寄りの現在の元荒川を流れ当時の利根川に合流しており、入間川は単独で下流の隅田川へと流れていた。江戸時代の1629年に荒川の付替えが行われ、熊谷市久下から現在の荒川合流点まで開削し、現在の流れが形作られた(利根川東遷事業も参照)。
利根川の東遷
利根川の東遷は、江戸時代の最初の将軍(徳川家康)の命令で行われました
東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立することなどに加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれています。
東遷の工事は、当時栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通して赤堀川としたほか、常陸川と多くの湖沼を結びつけて銚子に流すものでした。
いまの利根川の流れは、人の手により東へ流れを変えてできたものです。江戸時代に少しずつ東へと流れを移し変える大工事が、約60年間にわたって行われました。これを東遷(とうせん・東へ移すこと)と言います。それまで東京湾に向かって流れていましたが、人々の努力によって現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。
利根川東遷事業wiki
これらの一連の河川改修により、東北から江戸への水運には、利根川を使うことで危険な犬吠埼沖の通過や房総半島の迂回をする必要が無くなり、利根川は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展した。この水運路は鉄道網が整備される明治前半までは流通幹線として機能していく。
さいたまは 東京から東北へ向かう 玄関口でもあり
また 東京のベットタウン 東京へのエネルギー供給地として
発展した
人口動態など 統計上の数値を見ても
他のベットタウンよりも 東京への依存度が高く
もともと東北への防波堤として
エネルギーの付け替えの地として
役割を負わされていたのかもしれない
利根川を銚子へ流したのは 付け替えたのは
東北の力を恐れてのこと
江戸に張った結界は
東北の力をダイレクトに受け切れず
ほとんどを銚子へ集めて
わずかに東京湾に流して
そうやって
東北から受ける力の流れを かわしつつ
力を取り込んでいたのかもしれない
さいたまには
西武線と東武線があって
西武グループが運営する西武線は
鉄道事業と その周辺の宅地開発による不動産事業を担い
このグループの頭取が世界の長者番付けに載るほど
栄華を極めた時代があった
西武線はどういうわけか
他の路線にとの乗り入れが悪く
駅を別にしている所が多くて
そのため利用者は別の路線に乗り換えるために街中を歩かされ
不便なことで有名で
利用者の利便性よりも
開発地の商売を優先する姿勢は
このグループの繁栄と
凋落を
表しているようで
同じさいたまでも
このエリアは 西という名の通り
東北の玄関口とはならず
また
東京へエネルギーを抜かれることも
少なかったようだ
もし西武線が他の路線へ頻繁に乗り入れたら
東京へ直接流れてしまっていたら
コクドによる西武グループの栄華は
きっとなかったと想う
まるで入間川ー荒川ラインの囲いに守られるかのように
西武線は 囲いの中を走っている
さいたまの東武線は
東の武 東の戦 東征
そのまんま 東の結界
エネルギーの通り道で
東京へ献上される
家康によって築かれた江戸の結界 利根川の東遷と
家康が眠る日光へ繋がる 東武線
スカイツリーを東武線上に建てて
必死に維持しようとしているけれど
結界が破れてしまったら
水の道は
自然な形に戻ろうとするかもしれない
埼玉の「埼」の字は 崎と同じく
岬を意味する異体字で
玉は魂
古代この地は 海に面した岬が多く
岬は墓場として 多くの魂が眠る場所
蘇りの場所
それはずっと前から 予言されていたのかもしれない
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