2011年8月30日火曜日

311とは

マドモアゼル愛先生のお言葉を抜粋



2011年6月27日 (月)
人類本質文明

歴史を学ぶと人の考えがよくわかる。
世界の歴史からごっそり抜けてしまった重要な歴史が数多くある。
歴史が勝者の記録である以上、それは想定できるものだが、あまりにあまり、、という代表は縄文時代である。
土を掘り起こした中から色々な物が出てくる古代文明も大したものかもしれないが、ほんとうにすごい文明は土の中からはほとんど何も出てこない。
自然一体型の文明はすべてを土に戻していただろうから。
掘り起こした中から何か色々と出てくる文明が優れていたわけではないのだ。
そのことに多くの人は気づかない。
歴史学の大きな決定的な間違いは、人類史のスタート、そして文明の中心を縄文時代としないことだ。
確かに教科書には縄文時代は出てくるが、1万年以上つづいた人類最古の文明に対する尊敬も重要視もしない。
事実は隠せないと、かろうじてあげる程度。
おお昔の石器時代との流れで軽く扱いたがる。
今なを、縄文を軽視する風潮はつづいている。
まして、白人世界では縄文に目をやることはおそらくタブーになっているのだろう。
ここに業を負ってしまった人類の姿が垣間見れる。
あらゆるコンプレックスの根底にあるものは、縄文の否定から訪れることを私は感じる。
武器をもたざるを得ない人類、、金儲けをせざるを得ない人類、、、権力を志向せざるを得ない人類、、自然を荒らさざるを得ない人類、、、これらのコンプレックスの現れは、一言で縄文の否定からきている。
事実の否定には必ずコンプレックスと弁解が生じる。
それが争いであり宗教なのだ。

 1万年以上の間、一切の戦争がなかった縄文の時代。
すべてを土に戻し、あの世とこの世との和解を成立させていた偉大な文明。
完全な循環型文明は地球が命であることを知り、命と一体になって暮らした、間違いのないユートピアだった。
そしてエジプトから始まった歴史の流れを唯一凌駕するこの縄文を認めることは、権力機構重視の現代人にはできまい。
それをしたら自分らの存在の本質的基盤を失うことになるからだ。
ことに白人はそうだろう。
世界の悲惨な歴史のすべては、その本質を、この縄文と縄文的なるものの否定から発生している。
エジプトから始まった文明の流れは最終的に縄文を滅ぼしたので、歴史と人類の中心的な力はどうしても力に行きつく。
権力とテクノロジーである。
縄文を肯定すると彼らは自らのよって立つ基盤を失うので、それはできない。
歴史とは、縄文憎しのコンプレックスが巻き起こしたものと考えてよい。
世界の縄文的なものは武器によって滅ぼされたが、唯一日本においては、生き残りのために縄文は自ら変革を遂げ、弥生時代を通して融和と生き残りを図った。
それが今の日本人となるのだが、今なを、日本を二分するように東京から以北と以南とではその体質を分けている。
それは縄文変革における際に生じた指向性の違いだろう。
東北の人はより濃く縄文の魂を残した。
そう考えるといまだなを続く縄文否定の争いが続いていることになる。
今回の震災も当然この流れからとらえることができる。
しかし面白いのは、命の根源を失えば、すべてが死に絶えるわけで、歴史もついにそこまで来たか、、の最終場面とも考えられる。
最終の力学は何かというと、悪は最後は狂気に至る宿命がある。
経済の最終場面が一人勝ち経済では、民衆に金がなくなり消費が減り、経済が成り立たなくなる現象を生むように、最大欲は最大無欲で終焉する。
これが悪の狂気の宿命となる。
縄文最後の砦である東北の崩壊の持つ意味は人類史の最終場面が近づきつつあることのあかしなのだ。





梅原猛や岡本太郎のように、怨霊史観や縄文ブームはこれまでもあったし目新しい説ではない。しかし311と結びつけて現代に起こりうる危機を解き明かしているのは愛先生の他に知らない。αとβの差別化に意義を唱えるものもいるが、この二つの征服・被征服関係を理解しなければ、311も、恐らくこれから起きる事象も読み解くことはできない。

人類の始まりと終わりが一つのキーワードで繋がっているから、物語は完結する。

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