2014年11月13日木曜日

山形の「日本国」



山形の知られざる歴史


昨年11月には出羽三山神社にある蜂子皇子の御廟(東北地方で唯一の皇族の墓で、現在も宮内庁の管轄である)で供養会を催した。私は日本再生の必要性をこの東北山形県からと考えている。また中でも八乙女と日本国には、特別なる想いもあり、山形県の信者様と八乙女断崖の土地を一部取得した。また近い将来日本国に八角堂を建立する計画もあり、日本再生の祈念祈祷を厳守するものである。


山形の「日本国」という山
日本国山は新潟県の最北に位置する新潟県村上市伊呉野と山形県鶴岡市温海大字鼠ヶ関字原海を起点とし、・・・
わが国の日本国という名前はこの「日本国」の山から名付けられたのではという説もある。


豪族藤原氏の郷 山形県
実際、半島から日本列島に海渡するは、越前(福井県)はじめ新潟県、山形県、などのほうが、渡島(佐渡島の他に古代には、五つの小島があった)を経由して列島に入り易かったのである。


後 に百済や新羅からも入ってくるのだが、特に高句麗人と百済人は、高朱蒙「チュモン」(東明聖王とも言われ、紀元前58年ー紀元前19年。高句麗建国初代 王)を共にルーツとする扶余系(フヨ、ハングルではプヨ族)同族である。実はこの高句麗人が日本の要とも云うべき豪族に変貌を遂げるのだ。彼らは日本名藤 原(旧姓中臣、天智天皇より藤原の苗字を拝命)と名乗り、この国で実権を握る。それは7世紀飛鳥の時代からで現代まで脈々と連なり、日本的フリーメール(フリーメーソン?)ともいう可きネットワークを構築しているのである。


さてその藤原氏だが、奈良時代に南家、北家、式家、京家の四家に分かれたが、中でも北家は、平安時代に皇室と姻戚関係を結び、摂政政治を行った。後の鎌倉時代となると、藤原氏は近衛氏、鷹司氏、九条氏、二条氏、一条氏などの苗字を名乗った。藤原氏の家紋は枝垂れ藤のように藤をあしらったものが一般的だが、武藤氏(丸に剣片喰)の様に片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋と称される。片喰(かたばみ、葉先がハート型)とは種類が違うが、別名白爪草(葉先は丸く白い線がある)とも言い、英語ではクローバー(三ツ葉は三位一体、四つ葉は十字架を表す)ともシャムロック(ケルト人の信仰)とも言われ、ともに繁栄を表す意味がある。


扶余族をルーツとする藤原氏の裏家紋が片喰である以上、興味は尽きない。地を這いながら広く繁る片喰は、日本全国に触手を伸ばし、周到に繁栄を築こうとする藤原氏の野望を彷彿させるものがある。

さて藤原氏から輩出した一族には他に武藤氏、近藤氏、佐藤氏、遠藤氏、斎藤氏等がある。とくに鎌倉時代以降の上記の藤原氏は、東北に新たな所領地を求め勢力を伸ばすなど、破竹の勢いで北進した。確かに山形県には、武藤氏を始め、遠藤氏、佐藤氏、斉藤氏等、藤原氏に因んだ苗字がなんと多いことか。

これより上記豪族の謂われを紹介しよう。
武藤氏、釈正輪老師の本名も武藤であるが、藤原氏の一族である藤原北家、藤原秀郷の流れとも、藤原道長の流れとも言われる。武蔵に拠点を置いたため、武藤と名乗ったとの説が有力だが、本来は藤原景頼の子、頼平が武者所に就いたことが有名である。

さて武藤氏の元々の出生は美濃であり、藤原高光に従事した武家集団でもあった清和天皇ゆかりの源氏である。また武藤氏と近藤氏の末裔である大友氏は同族である。頼平の兄弟の能成の子が大友能直である。

因みに、山形県の出羽三山にある、国宝羽黒山五重塔は、長慶天皇文中元年約六百年、庄内領主羽黒山の別当であった武藤政氏が再建した。

遠 藤氏(「山形県郷土を愛する会」代表の氏)は千葉常胤の六男東胤頼を始祖とし、東胤頼の子孫は東氏と称して美濃国に入った。後に遠藤氏と称して八幡城に入 る。斎藤氏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、郡上藩を与えられた。斎藤氏は藤原一族の斎司を担う豪族で、美濃国岐阜に勢力をもっていた。

斎藤氏から分家した苗字は大変多く、中でも有名なのは、加藤氏、富樫氏など、山形秋田福島に多く、藤原利仁にはじまり、越前加賀など、北陸各地に武家として発展した。加藤氏は加賀に移った藤原氏である。佐藤氏は藤原秀郷を源流とし、福島に多く、佐渡に移った藤原氏である。

伊藤氏は伊勢に移った藤原氏である。近藤氏は近江に移った藤原氏である。後藤氏は藤原利仁流の美濃国前田氏の末裔であるが、また藤原秀郷流の後藤氏だとも云われ、備後に移った後藤氏から、播磨の後藤氏、肥前の後藤氏と全国に分家した。

この様に藤原氏は日本全国に苗字を変えながらも分散し、特に鎌倉時代以降には蝦夷の新天地へと領土を拡大していったのである。東北の玄関口栃木県から、藤原の姓にゆかりの深い苗字が多いのはこのような理由からである。中でも山形県は特別多く存在することがわかった。

※釈正輪老師(四大老師)のブログ、「日本人の源流」より抜粋






裏藤って裏家紋の藤原のことだったのね





最近このままを書き続けていいものかどうか考えてます



もっと違うものが書けないかなと想ったり
血筋の動きなんか追ってもバカバカしいし
そんなことを書き続けていいものか

悲鳴が聞こえる
危険信号が灯っている


物語としては面白いですよね
リアル戦国時代を見ているのは
他人事ならね(笑
ずっと小説の中にいるみたい


でも自分の現実が侵食されるだけで  そこから何も生まれないのなら
時間だけが過ぎるのなら
少し考えないといけない
ドラッグから抜けられないのと同じ・・・




深く潜ったら   後は上がるだけ


















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