2014年10月29日水曜日

馬と羊が群れる国



謎多き群馬と埼玉

藤の花咲き乱れる地
中臣の鎌足が藤原の姓を賜ったのは、死の直前だったと言われています。でも、それは本当でしょうか。天智天皇が右腕とも言える鎌足の望みであった藤原姓を、 死にゆく彼に同情して与えたのでしょうか。藤原という姓は鎌足自身の望みだったのでしょうか。そしてそれを誰が知っていて、誰が2人のやり取りを見ていた のでしょうか。後から捏造された逸話と考える方が自然ではないでしょうか。だとすると、このエピソードを創作したのは鎌足の次男であり、結果的に嫡子となった藤原不比等だと考えるのが妥当でしょう。

日本人のDNAという視点から、日本人のルーツを探ろうという試みをしている研究者もいますが、大きく16群に大別されるそうです。それによると日本には実に多様な種族のDNAが混在しているのだそうです。例えば韓国人は40%は韓国人特有のDNAを持っていて、中国人は60%が中国人独自のDNAをもっているとか。それから比べると日本人は特に日本人固有のDNAが他と比べて傑出してるわけではないので、我々は帰化人の子孫ということになるのだそうです。




鎌足は死に際に「大織冠藤原内大臣」を承って
ここから藤原が始まるんだけども

神道派だった藤原氏が蘇我氏を倒した後に仏教に転向したのは
息子の不比等からかな?
不比等は養子のようだから



想ったよりも多民族国家だった日本・・・

中国や韓国よりも多様化しているのに
よくもまあ単一民族とか


戦国時代の戦国武将の戦いとか
ほとんど中東やヨーロッパの民族紛争と
変わらないと想った方がよさそう





古代日本の影の中心
尊卑分脈によると、藤原不比等の父親は言うまでもなく中臣鎌足ですが、母親の名前は車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)となっています。この不比等には鏡王女(かがみのおおきみ)と天智天皇の間に生まれた子であるとする後胤説があったようです。この話と埼玉・群馬と何の関係があるのかと言いますと、車持与志古娘の実家は群馬県で、今の高崎の近くなのです。

埼玉県ときがわ町に、多武峰神社(たむのみね神社)があります。多武峰というと、奈良県桜井にある談山神社(たんざんじんじゃ)がある山なのですが、何故同じ名前が埼玉県にあ るのでしょうか。談山神社は藤原鎌足縁の神社です。埼玉の多武峰神社を調べてみると、由来は706年この地を管理する武蔵国の藤原氏が大和国桜井の多武峯 (現談山神社)より藤原鎌足の遺髪をいただき多武峯大権現を建立し守護神としたというものでした。なぜ埼玉県のこの地に鎌足縁の神社があるのでしょうか。埼玉県も西側から群馬にかけては、不比等や役行者にまつわる神社や寺が点在するのです。ときがわ町には慈光寺(じこうじ)という寺があり、役行者が深く関わっています。伊豆に流された役行者が関東を歴遊してこの地に至り、西蔵坊を設け修験道場とした、とありますが、なぜ伊豆にいるはずの役行者が埼玉県にいたのでしょうか。
秩父には古代より銅山がありますが、何故わざわざ奈良近辺ではなく埼玉県の秩父なのか、不思議に思ったことはありませんか。そして、不比等伝説のあるところ、かならず役行者の伝説が被る。これが何を意味するのでしょう。


鎌足については千葉県木更津に鎌足桜があります。鎌 足が常陸の出身であるという説があるのですが、千葉・埼玉・栃木・群馬にその名を見つける事が出来るのです。奈良では鎌足に親戚はいません。鎌足は中臣家 の養子なので、中臣氏とは血縁ではないのです。かの大鏡には鎌足の出身が常陸であると書かれていますが、同時にこの大鏡には不比等が天智天皇の子であると 書かれています。

語り部によって伝えられた隠れた歴史が、中央政権の政治力が及ばない遠隔の地に 残っている可能性は高いのではないでしょうか。しかし、中部でも中国地方でもなく、関東というのが面白いのです。鎌足・不比等伝説を関東の、それも観光地 としてはあまりパッとしない埼玉・群馬の2県で探してみたいと思います。





千葉市には鎌取駅がある


不比等と役行者の結びつきが強い

役行者は呪術師  



鎌足の出自が関東なら
鎌足=百済の王子説はおかしなことになる


役行者関係で半島との関係はあったかもしれないけど



ときがわといえば  宮崎勤の幼児殺人事件で
遺骨と一緒にときがわの土が入っていた


北関東で少女誘拐事件が多いのも
この地域に藤原や役行者の因縁が多いせいなのかな




不比等の母親の実家高崎は  中曽根さんとか福田さんとか
歴代首相を輩出した地


ちなみにBOOWYもここ出身なんだけど
部落が多いって聞いた


藤原がそもそも・・・って話になるね





列島随一の平野
関東に王国があった
論拠としては関東平野に点在するおびただしい古墳の数と、地形的に有利である点を挙げていました。そして魏志倭人伝の中の記載で倭国には牛、馬、虎、豹、羊は無いという主旨の事が書かれていて、日本には馬はそもそも居なかったとしながら、関東地方の特に群馬の古墳からは馬具や馬の塙、馬具をつけた馬の歯などが出土していることから、関東には馬を操る民族がいたと結論づけています。

ただ、群馬を含む関東地方は、やはり奈良の中央集権の管理下にあったことは間違いなく、采女まで出しているのがその証拠です。奈良に対抗したというよりも、中央を遠隔操作していた可能性はあると思います。中央から遠く離れた火の粉の降りかからない安全な場所にいて、従順なふりをしながらも実は中央政権の真ん中に入り込み、思うように日本国を作り上げたのではないかとすら思います。

不思議な事に、関東地方はどこに行っても藤原鎌足・不比等の伝説を見つける事が出来ますし、その周辺には必ず役行者の足跡を見つける事が出来るという不思議があります。思えば奈良の鹿はもとは鹿島の鹿です。本当は奈良の大和政権は彼らの出張所、あるいはテーマパークニッポンだったのかも知れません。奈良県を探しても見つからない彼ら親子の墓も、関東をくまなく探せば見つかるかも知れません。自分の足跡を残さないように生きていた謎の政治家藤原不比等は、自分の、あるいは自分たちの存在がクローズアップされないように慎重に生きていたのかも知れません。クローズアップされないエリア、それは東京の近くでありながらあまり目立たない北関東そのものではないでしょうか。




埼玉は三玉
埼玉県も秩父近辺には朝鮮半島を連想させるような地名や神社が数多く存在します。高麗や甘楽(から)など、朝鮮半島からやって来た人々が住み着いたといわれています。その人々は所謂朝鮮民族なのでしょうか。それとも朝鮮半島を経由してやって来た異民族なのでしょうか。秩父から群馬にかけて盛んに行われていたのは養蚕、そして鍛冶です。養蚕はシルクロードを通って日本に入ってきたといわれていますが、元祖はユダヤ人と言われていますが、果たしてこの地に住み着いたのはユダヤ人だったのでしょうか。




群馬と平城をつなぐ羊
群馬という県名は不比等の母方の実家である車持(くるまもち)から来ていると言われていて、「くるま」が「ぐんま」に転訛したと言われています。群馬県には「羊大夫伝説」というものがありますが、群馬にも羊の文字が組み込まれています。不比等が群馬の親類との関係を終生大切に思っていた証拠として、現在でいう宅急便のように食料などいろいろなものを送ったり送られたりした木簡が出土していることからも解ります。羊太夫を祀ったとされる神社が安中市にあり、その名もそのまま「羊神社」と言います。羊とは一体なんなのでしょうか。
羊大夫伝説というのもかなり変わっていて、意味がわかりません。

伝説によると、羊太夫は毎日平城に秩父の和銅を献上していたといわれています。毎日同じ人が、です。群馬から奈良県へ古代の人が毎日どの様な手段で往復できたのでしょう。なんでも、羊太夫の馬は小脛と名乗る青年が同行すると飛ぶように走ったというのです。

群馬県吉井町には、羊太夫が乗って天から降りて来たという舟石があり、城山は羊太夫の居城跡だと言われているそうです。羊太夫の馬が倒れた地には竜馬観音世音が祭られていて、八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあります。伝承によると、藤岡市にある七輿山(ななこしやま)古墳に羊太夫の一族が葬られているというのです。
ちなみに伝説では八束脛が金色の蛾となって月夜野の石尊山の洞窟に隠れたと言われていますが、利根郡月夜野町後閑にある八束脛神社がそれなのだそうです。この八束脛伝説は群馬のみならず新潟県内にもあるのですが、どういうことなのでしょう。

実は、羊太夫の本当の名前は、小幡太郎太夫勝定の息子で宗勝と言います。戦国時代活躍した小幡氏の先祖にあたります。そしてこの小幡は、元々「小秦」と書いたそうです。そして秦氏の先祖がユダヤ人であると言われていますが、中国では秦はペルシャを指すのだそうです。

羊 というと家畜でもあるわけだが、日本ではあまり一般家庭で羊は食べません。日本に羊が入ってきたのは正式にはいつ頃なのでしょうか。日本人の食生活を振り 返る時、乳製品を日常食していたという時期は限られているようです。飛鳥時代ですが奈良県の方、奈良に旅行した方ならご存知かも知れませんが、飛鳥の蘇という古代のチーズがお土産として売られています。古代の食を再現したものなのだそうです。そして飛鳥には鍋に牛乳を入れる明日香鍋があります。群馬県民が古代何を食べていたのかはわかりませんが、同じ時代、行き来があったのなら群馬でも羊やチーズを食べていた可能性はあるかも知れません。むしろ平城に羊太夫一族が乳製品を献上していたと考えても不思議ではないでしょう。





ちなみに福島の会津地方は羊料理が盛ん


藤姓も東北の方が多いという不思議・・・



群馬~新潟~半島というラインもある

鎌足百済の王子説はこのライン?



鎌足は中大兄皇子の蹴鞠の会で
靴を落とした皇子の靴をすかさず拾い上げて捧げて
皇子と出会い意気投合していく


これが鎌足が初めて歴史上に現れるきっかけなんだけども



何かの逸話によく似ていませんか?


そう
秀吉が信長の草履を温めて差し出した話とよく似ているのです

秀吉が信長の下で出世したのもこれから



そして秀吉は後に朝鮮出兵をするんだけども


秀吉の朝鮮出兵は
白村江の戦いで中大兄皇子が出兵するのと似てませんか?
(この時鎌足行方不明)


朝鮮出兵で結果たくさんの朝鮮人が日本にやって来ることになったのは
韓国併合のせいで半島から朝鮮人がやってくるようになったのと同じで


出兵や併合は同胞を援助する建て前のように聞こえてしまう
それをやるのはそうしたい繋がりがあるわけで


そうでなければ海を越えてまで苦労して行こうとは想わないと想うのです



半島ってなにか資源があるわけでもないし
特別魅力的な何かがあるわけでもない


白村江の戦い  朝鮮出兵や韓国併合って
かける労力に対してどれも動機が弱すぎる
自分の故郷でもない限り・・・
というのが私の印象


だから鎌足が百済の王子じゃなくても
日本を半島へ引き寄せる何かだったとしても不思議じゃないのです




北関東はもしかしたら中央の歴史に対して
身分ロンダリングできるような場所だったのかな


半島から京に上るにしても  九州や西日本から来るとバレやすいけど
北関東からだとバレにくかったとか



意外と役行者が暗躍しているイメージ






鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)のことを調べていたら
妄想が浮かんだんですが書いていいですか?
妄想というより創作レベルで聞いてほしいのですが



鎌足が死ぬ間際に天智天皇から藤原姓を授かったのは
不比等の創作だろうという指摘

というのは不比等は古事記日本書紀を編纂した人で
不比等に都合よくまとめられている節がある


なのでなぜ鎌足が死の間際に藤原姓を授かったという
そんなエピソードが必要だったのか
その理由を考えてみる



まあトンデモなんですけどね
私は死んだのは鎌足ではなくて中大兄皇子ではないかと想うのですよ

そして鎌足が天智天皇に成り代わったんじゃないかなと



仏教派の蘇我を倒したのに皇室を仏教にするには
中大兄皇子は邪魔だったと想うんです

それに中大兄皇子と蘇我入鹿の関係は良好で
蘇我氏のクーデターの後も入鹿は追放されなかった

普通にやってたら鎌足の入る隙はなかったんですよね



もしかしたら白村江の時にドサクサに紛れて
成り代わった可能性もあると想ったり


天智天皇はなかなか即位しなくて  即位したら4年で亡くなってしまった
なぜずっと即位しようとしなかったのか
この時代の大きな謎のひとつでもあるらしい
なかなか即位しなかったのも鎌足が関わってそうな気がする


不比等は天智天皇(中大兄皇子)の落胤という説が強く
この頃はまだ十代

まだ母元の群馬に居て中央にはいなかったのかもしれない



そうするとね
後から事実を知った不比等が「鎌足が死ぬときに藤原になった」としたのも
実父の中大兄皇子が鎌足として死んだ時に藤原姓を貰ったというエピソードで
自分と父の繋がりを示したのかなあと


天智天皇が山科に遊びに行ったときに行方不明になって暗殺されたのも
鎌足が天皇に化けてたなら  いつ暗殺されてもおかしくないし
暗殺したのは天智天皇の弟の天武天皇という説もありえるなーと

だから即位期間が短かったのかなとか



実父を暗殺した鎌足の子となるのは不比等は癪だったかもしれませんが
不思議なことに藤原姓は不比等の子孫だけに限定され
不比等の従兄弟たちは中臣の姓のまま  藤原姓を許されなかった
鎌足に藤原を与えておきながら中臣家とは一線を引いてるのね


既にこの世を去り後ろ盾にならない天智天皇の子でいるのは
不比等も天武派に命さえ狙われる恐れがあったんじゃないかと想う
もしかしたら天智天皇の落胤だと知ったのは大分後からかもしれないけどね


天智天皇が亡くなって中臣の勢力は朝廷から一掃されて
天武天皇の代になると不比等は下級役人からスタートしている

その後擁立する天皇の後見人となって政治の表舞台に出まくるようになる

不比等による摂関政治が始まる



鎌足が中大兄皇子を暗殺しなかったらと仮定したら
聡明な中大兄皇子が天寿を全うしたら
朝廷も安定してその後の壬申の乱のような
皇族同士で血を血で洗う争いを生むことなく
政治闘争に藤原氏という亜流が生まれる隙を与えなかったかもしれない



そもそも鎌足が入って来なかったら
白村江にも参戦しなかったかもしれないし
なんか鎌足はふらっとやって来て朝廷に入り込んで
余計なことして掻き回しただけという感じがするのです
争いの種を撒きに来たような



国家統一のために天皇家が仏教を採用するようになったとしても
それなら蘇我氏主導でやれたはずで
鎌足は一体なんのためにいたのか
蘇我氏という禍根を作っただけ



不比等という藤原の第三勢力は群馬や北関東の種族が
大和朝廷に干渉するきっかけを与えたかもしれず

皇室と藤原家の相性の悪さを私は密かに感じるんですよねー


















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