2011年10月16日日曜日

落人集落

落人集落を調べていたら、なんと最近の災害のほとんどに関係している。ドンピシャなのもあれば、隣町というのもある。震災の放射能が関東方面に来ているのもこのせいなんかな。茨城栃木にもある。自然災害や放射能の被害が大きいところをチェックしてみた。

もし情報が確かなら、落人集落周辺地域は今後要注意かもしんない。東京にくるくる言われてて中々来ないのは、こっちが先ってことなんだろうか。

それにしても、311の仙台や長野の栄村とか、豪雨の新潟津南町とか、台風の十津川、那智勝浦とか、そのまんまあってビビる・・・ ((( ;゚Д゚)))  豪雨の福島南会津は只見だけど、落人集落は隣町の檜枝岐村でちょっと外れる。岡山の久米はこの前の台風で被害が抑えられたのは、この地はもともと弓削一族(物部系)だったのも関係あるのかな。

wikiより。


日本全国の平家の落人伝承 [編集]日本各地の代表的な平家の落人伝承のある地域は以下の通りである。

  東北地方 [編集]

山形県酒田市鳥海山麓
平家方として落ち延びた池田彦太郎秀盛兄弟が隠れ住んだと伝わっており、秀盛の後裔と称する氏が戦国時代の土豪として存在し、最上氏等の家臣となっている。

宮城県仙台市青葉区定義地区
平貞義が落ち延びたと伝わる。

福島県南会津郡檜枝岐村
平家方として落ち延びた平氏・藤原氏の者が土着し、星姓、平野姓を称したという。

 関東地方 [編集]

茨城県久慈郡大子町古分屋敷
平家方についた大庭景親の残党が落ち延びた伝承がある。尤も、武者ではなく平家方に随身した武将の姫であったといい、古分屋敷に子孫は10軒の家を構えたとされる。二人の姫と土着した子孫の姓は桐原氏、神長氏という。桐原氏は坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の流れを汲む大庭氏の血筋であり、神長氏は藤原氏であるという。また、この二氏は佐竹氏の家臣としても存在している。

群馬県利根郡片品村
関東では最北に位置する落人伝承の村である。あちこちで敗れた平家一門は尾瀬も近く、片品村に至るまでも険しい山々が連なる場所まで逃げた結果、片品村に平家の落人が住み着いて繁栄することになった。

栃木県塩谷郡栗山村川俣(現・日光市)
平藤房(藤原藤房とも)らが落ち延びたとされ、大将塚・平家杉などの史跡が散在する。

栃木県日光市湯西川(湯西川温泉)
平忠実が落ち延びたとされる。湯西川の平家の落人伝説は現地の平家落人民俗館などでも紹介されているほか、平家大祭などの行事も行われている。湯西川温泉では積極的に落人伝説を観光業に活用している。
平家の正当血縁者が落ち延びたとされ、平家の者であることを悟られぬよう苗字を「伴」とした。「伴」の人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「?」という字になる。つまりは「平の人」ということを意味し、平家血縁者であることを示す。現在も「伴」という苗字の平家の子孫がこの土地に存在している。
独自の風習として、端午の節句にもこいのぼりを揚げない・たき火をしない(煙を立てない)・犬を飼わない・鶏を飼わないなどがある。これらは人が山中に暮らしていることを外部にかぎ取られないためである。

千葉県館山市畑集落

千葉県南房総市増間集落

  中部・北陸地方 [編集]

長野県伊那市長谷(旧上伊那郡長谷村)浦
檀ノ浦の戦いに敗れた平維盛の子孫が住み着いたと言われている。維盛の父である平重盛が小松殿と呼ばれていたことから、小松姓を称した。檀ノ浦の「浦」が地名となった。

長野県下水内郡栄村秋山郷・新潟県中魚沼郡津南町
平勝秀が落ち延びたとされる。

新潟県佐渡市相川(旧佐渡郡相川町)
長兵衛尉 長谷部信連が落ち延びたとする伝承がある。

富山県東砺波郡平村・利賀村・上平村(現・南砺市) 五箇山
倶利伽羅峠の戦いで敗れた者の子孫という説、あるいは源義仲に敗れた平維盛の子孫が住みついたという説がある。この話をもとにしたのが「むぎや」である。

石川県輪島市
平時忠が配流となり、子孫が上時国氏、下時国氏を興した。

石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)
惟喬親王を奉ずる旧、西谷村の木地師集落。山中漆器の源とされる[1]。

  関西地方 [編集]

三重県伊勢市矢持町
「平家の里」という名が残る。

三重県志摩市磯部町五知
地区の福寿寺に「平家の赤旗」と伝えられる旗が保存されている。

三重県度会郡南伊勢町南島八ヶ竃

南伊勢町(旧南島町)に多く見られる「竃」が付く地名は、平家の残党がそこに住み着いて塩を作って生計を立てていた集落であるという。詳しくは南島町#伝説を参照。

奈良県吉野郡野迫川村平(たいら)
平維盛がその生涯を終えた場所とされ、平維盛塚の付近は「平維盛歴史の里」として整備されている。

奈良県吉野郡十津川村五百瀬
山林中に平維盛の墓と伝えられる祠がある。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川
平維盛が屋島から逃亡し、隠れ住んだと伝わる。

和歌山県田辺市龍神村小森谷

   中国地方 [編集]

鳥取県八頭郡若桜町
平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したと伝わる。

鳥取県八頭郡八頭町姫路
安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。

鳥取県東伯郡三朝町中津
安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。

山口県玖珂郡錦町(現岩国市)
平家の武将を葬った平家七墓があるという。

山口県下関市彦島
山口県彦島にも平家の残党と伝わる落ち武者が来訪したことが伝わる。この武者は、平家再興の夢を捨て現地で自ら命を絶ったとされる。

山口県下関市大字高畑
壇ノ浦の合戦があった早鞆の瀬戸から直線距離で約2kmしか離れていない谷間の集落。あまりに近すぎたため追手に気づかれなかったと言い伝えられている。平家塚と呼ばれる場所に五輪塔などがある。

広島県庄原市
「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。その内容によると、熊谷直実に討たれたとされる平敦盛が実は生きて庄原に落ち延びたという話になっている。

広島県福山市
旧沼隈郡沼隈町の横倉地区にある 落ち延びた平通盛一行は、山南川を奥へと分け入り横倉に隠れ住んだという伝承があり横倉には平家をしのぶ痕跡が多数あり平家谷とよばれている。なお平通盛は清盛の弟教盛の長男。また当地にある赤旗神社には平家の軍旗である「赤旗」を祀っている。

岡山県久米郡久米南町全間
平維盛の末裔が落ち延びて、其の後裔が持安氏と称して幕藩体制で全間を治めた。全間(またま)から連続する大垪和にかけて山上の隠れ里のようになっており、平氏、貴族、関ヶ原で敗れた石田氏などさまざまな落人伝説が伝わる。

  四国地方 [編集]

徳島県三好市東祖谷阿佐(旧・三好郡東祖谷山村阿佐)
屋島の合戦に敗れた平国盛率いる30名の残党が、讃岐山脈を経て、阿波へと入り、現在の徳島県東みよし町から井川町(現・三好市)にかけての一帯に住んだが、追手に脅かされ、祖谷に住んだと伝わる。阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存する。

愛媛県四国中央市金生町山田井 切山(旧・川之江市)

愛媛県八幡浜市保内町平家谷(旧・西宇和郡保内町)
壇ノ浦の合戦後、落ち延びた残党が佐田岬半島の伊方越にたどり着き、宮内川上流の谷に隠れ住んだとの言い伝えがある。8名で畑を開き暮らしていたが、源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落(保内町)の祖となったという。平家谷には平家神社がまつられている。

高知県?愛媛県?徳島県の山地一帯高知県の越知(おち = 落ち?)町にある横倉山に安徳天皇陵参考地がある。またその周辺に県境とは無関係に屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はない。ただし周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく石に名前を書いて並べ置く風習があったがこれは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致するうえ香川県の屋島→徳島県の東祖谷→と逃れた平家一門が最後に住み着いた場所である可能性は高い。愛媛県にある平家追討軍が引き返したという地にはひっそりと「平家終焉の地」の碑があるがそのすぐ南には仁淀川が流れ平家の隠れ里がある。村おこしや明治以降の尊王思想でできた派手な周辺施設の多くは後の創作物と思われ本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。

  九州・沖縄地方 [編集]

福岡県北九州市八幡西区上上津役
乳飲み子を連れた平家方の女性が源氏方の武者に赤子の声を聞かれ、見つかりそうになり親子ともども命を絶ったという伝説がある。

福岡県北九州市小倉南区合馬
安徳天皇に随行した官女が遊女となり、後に病死したという伝説がある。

大分県宇佐市院内町
平家七人塚、経塚の由来記。宇佐にいた平家一門が駅館川の支流の院内川を遡って大門に辿り着いた。大門の地は、平安時代に宇佐神宮に参籠した僧の行基菩薩が開山したと伝えられる龍岩寺周辺に仏典を書き写して、経筒に納め埋納した経塚がある。信仰厚い平家落人が住むには安全な地だった。門脇中納言平教盛公の子孫らは矜持を保ち塚を築いた。

長崎県上県郡・下県郡(現・対馬市)
安徳天皇が落ち延びて住んだという伝説がある。

長崎県北松浦郡宇久町(現・佐世保市)
平家盛が上陸して当地の領主となり、宇久氏(後の福江藩主五島氏の前身)を名乗ったという。

熊本県八代郡泉村(現・八代市)
平清経が当地にある五家荘に落ち延びたとされる。平家の落人の伝承という「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財となっている。

熊本県球磨郡五木村
五家荘に落ち延びた落人と同族という説がある。

熊本県八代郡坂本村(現・八代市)
市の俣(げずのまた)にて伝承される。

宮崎県東臼杵郡椎葉村
下野国の住人那須氏の一門・那須宗久(「大八」又は「大八郎」の名で知られ、那須与一の弟とされる)は鎌倉幕府の平家の残党追討軍に加わり、肥後との境にある向山に拠った残党を追討、次いで日向国椎葉山に拠った残党の追討に赴いたが、残党に戦意はなく農耕に励んだことから、追討をとりやめたという。宗久は現地で平清盛の末孫という鶴冨姫という娘と知り合い、恋仲となり3年間の滞在の間に二人に子が授かった。やがて、那須宗久は本領へと引き上げたが、このとき、平家の残党は自分たちへの追討をとりやめ命を救ってくれた宗久への感謝の気持ちから那須姓に改めたという。この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡「ひえつき節」である。また、21世紀には島田雅彦が、小説『徒然王子』で、主人公が転生してこの村を攻めたという設定にしている。

鹿児島県鹿児島郡三島村
平経正、平業盛らのほか、30あまりの史跡があるとされる。

鹿児島県大島郡(奄美群島)
平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約3年間喜界島に潜伏、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流して、ともに奄美大島に来訪したという。2005年に平家来島800年記念祭が行われた。

喜界町志戸桶(喜界島)、奄美群島に到着した平家が最初に築いたと言われる七城跡がある。
喜界町早町、源氏警戒のため築いた城跡がある、平家森と呼ばれている。

奄美市名瀬浦上(奄美大島)、有盛を祀った平有盛神社がある、有盛が築いた浦上城跡と言われている。

瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)、資盛を祀った大屯(おおちょん)神社がある。

龍郷町戸口(奄美大島)、行盛が築いた戸口城跡がある。現地には行盛を祀った平行盛神社もあるが、城跡とは離れている。

龍郷町今井崎(奄美大島)、行盛により今井権田大夫が源氏警戒のため配された、今井権現が建っている。

奄美市笠利町蒲生崎(奄美大島)、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配された。
沖縄県今帰仁村運天港
『おもろさうし』の「雨降るなかに大和の兵団が運天港に上陸した」とある記述は「平維盛が30艘ばかり率いて南海に向かった」という記録を基に平維盛一行のことだとされることがある。

沖縄県宮古島狩俣
落武者の物という古刀など遺品が伝わる。また平良という地名は平家の姓に由来するものという。



那智勝浦で桜が狂い咲きしているらしい。
平家の記事で、なぜかタイトルと写真を桜にしたのはこのこと?
熊本の山鹿市でも桜が咲いたとか。ちなみに地震の震源だった菊池市の隣。
地震雲掲示板
桜の下には・・・らしいけど、平家にはなんとなく桜のイメージがある。
暖かいと勘違いして咲いたりするんだけど、場所が場所だけに気になった。
調べてみると、各地で咲いているみたいで、台風などの強風で葉がなくなると冬と同じ状態になって、その後に気温が上がると春と勘違いするらしい。
狂い咲きリスト
長野県伊那市が入っている。こんなに全国的に咲くものなのかな。。。
沖縄宮古島狩俣で、さんご礁の破壊が行われているらしい。何でもアートプロジェクトとか。

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